報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十一章 虚言きょげん羅列られつ

地涌オリジナル風ロゴ

第375号

発行日:1992年2月3日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

念仏思想を受け継いだ御書のニセ物「十王讃歎鈔」には
導師本尊に書かれた「冥官」という言葉が三度も登場する
〈導師本尊シリーズ・第4回〉

鎌倉、南北朝、室町、戦国、安土桃山などの各時代の人々を支配した考えは、末法思想であった。世相もまた末法の世を裏づけるかのように、殺戮、強奪、下剋上の武力のみが公然と幅をきかせ、飢餓が横行していた。

そのため、民衆は日常的に死を意識し、その死もまた今日のような安穏な死ではなく、刀刃によるもの、飢えによるものなど、いわゆる非業の死を意識していたにちがいない。

骸もあちこちに見かけ、埋葬することもなく路傍に捨てられたものからは腐臭が漂い、新しい骸は野犬や獣の餌食となり、古い骸は蛆のすみかとなったことだろう。

まさに、この世は地獄絵の世界であり、そうした状況の中で聞く地獄の話に、人々は恐怖、戦慄した。その恐怖、戦慄の度合いは、科学がすすみ、あらゆる情報機器に囲まれた現代人には、とうてい理解できないことである。

もし、地獄を意識した昔の人々の心情を少しでも理解したいと思うならば、人里離れた真っ暗な谷間で、ランプ片手に地獄に関して説かれた「経」を読んでみることも一計ではあるまいか。

たしかに、地獄思想は人間のもつ弱い心をからめとり、心の中に虚ろで真っ黒な空洞を開けるだけの力がある。誰もが持つ暗愚な心を引き込むだけの力を持っている。誰もが抱く「死」への恐怖心が、地獄を身近なものにし、地獄への陥穽をいっそう大きく広げていく。

地獄は、生きている者にとっても恐怖となるが、その恐怖心はまた死者への憐憫の情をわかせることにもなる。父が、母が、夫が、妻が、わが子が地獄の責め苦に嘆いているのではないだろうか、もしそうだとしたら、それを助ける手立てはないだろうか……。

すべての人間が持つ「死」への恐怖、縁ある者への情。この、きわめて人間的な感情に葬式仏教は寄生し、売僧たちは何百年にもわたって、それを食い物にしてきたのだ。

あげくのはては、日蓮大聖人の偽書までつくり、人々の地獄への恐怖をあおり、追善供養を余儀なくさせ、ことあるごとに布施を巻き上げようとしたのである。

日蓮正宗総本山大石寺発行の『昭和新定 日蓮大聖人御書』には「十王讃歎鈔」「回向功徳鈔」などが収録されているが、これらは日蓮大聖人の御筆になるものではなく、まったくの偽書である。

いずれの偽書も、死者が地獄で責め苦にあっている様を詳細に記述し、その苦しみから救う方法はただ一つ、僧を呼んで追善供養をすることだと、しつこいほど繰り返し述べている。

「十王信仰」「地獄信仰」の完成型は、僧による追善供養によって死者が救われるということである。すなわち死者の救済に、出家の介在が不可欠だとするものである。

しかし、本来、日蓮大聖人の教法にのっとる追善は、出家や在家に関係なく、生者の信心いかんにかかっているとされる。同じ追善の言葉を使っても、ここに大きな本質的な違いがある。

日蓮正宗の末寺の中には、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』に「十王讃歎鈔」が収録されていないことを不足に思ってか、『昭和新定 日蓮大聖人御書』から、わざわざ「十王讃歎鈔」をコピーにとり、配っていたところもあった。「十王讃歎鈔」に説かれている、僧が介しての七日ごとの法要の必要性が、なによりも魅力的だったのだろう。

日蓮大聖人御入滅後に著された他宗派の文である『善光寺縁起』『塵添埃嚢鈔』に書かれた内容が「十王讃歎鈔」にそのまま記されており、そのことからみても、「十王讃歎鈔」が偽作であることは学問的に証明されている。

「十王讃歎鈔」は、いまでは学問的に西暦一三九六年~一四一一年のあいだにつくられたものと特定されるまでになっている。ちなみに、日蓮大聖人は、西暦一二二二年の御生誕で、御入滅は一二八二年である。

思想的には「十王讃歎鈔」は、偽書『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(一一九〇年~一二〇〇年の間につくられた)や『浄土見聞集』(一三五六年 浄土真宗の存覚が著した)などの系譜に連なるものである。

十王とは、死者を期日ごとに裁く王で、初七日・秦廣王、二七日・初江王、三七日・宗帝王、四七日・五官王、五七日・閻魔王、六七日・變成王、七七日・泰山王、百箇日・平等王、一周忌・都弔王(都市王)、三回忌・五道輪轉王の十王を指す(「十王讃歎鈔」による)。

ともかく、「十王讃歎鈔」の内容は、日蓮大聖人の仏法とは異質の実に無慈悲なものであり、そこにあるのは、民衆に対する堕地獄の脅しのみである。このような偽書が、なぜ今日まで日蓮大聖人の御書として半ば信じられてきたのか、不思議でならない。

やはり、僧侶の祈念によってのみ成仏も追善もなされるといった、出家の側の傲りが、「十王讃歎鈔」へ向けられる眼を曇らせてきたのだろう。

偽書「十王讃歎鈔」については、大石寺発行の『昭和新定 日蓮大聖人御書』の第一巻に全文が収録されている。興味のある方は一読されたい。ただし後味は、すこぶる悪いものとなろう。最後まで読み切るには、スカトロマニア(性愛の相手の排泄物に対し、異常に執着・愛好する人)的性向でもなければ耐え得ないのではあるまいかとも思える代物である。

「十王讃歎鈔」は、なかなかの長文だが、その意を汲んで趣旨をもっとえげつなく露骨に表現したものに、「回向功徳鈔」がある。その冒頭の一部を紹介する。

「涅槃経ニ云ク、死人に閻魔王勘へて四十九の釘をうつ。先目に二ツ、耳に二ツ、舌に六ツ、胸に十八、腹に六ツ、足に十五打ツ也。各々長サ一尺也取意。而ルに娑婆に孝子有て、彼追善の為に僧を請ぜんとて人をはしらしむる時、閻魔王宮に此事知て先ツ足に打たる十五の釘をぬく。其故は、佛事の為に僧を請ずるは功徳の初なる間、足の釘を抜ク。爰に聖霊の足自在也。さて僧来て佛を造り、御経を書ク時、腹の六の釘を抜ク也。次に佛を作り開眼の時、胸の十八の釘をば抜ク。さて佛を造リ奉り、三身の功徳を読ミ上ケ奉て、生身の佛になし奉り、冥途の聖霊の為に説法し給へと読ミ上ケ候時、聖霊の耳に打て候ヒシ二ツの釘を抜ク也。此佛を見上ケまいらせてをがむ時に、眼に二ツ打チたる釘を抜キ候也。娑婆にて聖霊の為に題目を声あげて唱ヘ候時、我志す聖霊も唱フる間、舌に六ツ打て候ヒシ釘を抜キ候也。而ルに加様に孝子有て迹を訪ヘば、閻浮提に佛事をなすを閻魔法王も本より権者の化現なれば是を知て罪人に打チたる釘を抜キ免じて候也。後生を訪ふ孝子なくば何レの世に誰か抜キえさせ候べきぞ。其上わづかのをどろ(茨棘)のとげのたちて候だに忍び難く候べし。況や一尺の釘一ツに候とも悲しかるべし。まして四十九まで五尺の身にたてゝは何とうごき候べきぞ。聞クにきもをけし、見ルに悲シかるべし。其を我も人も此道理を知ラず、父母兄弟の死して候時、初七日と云フ事をも知ラず、まして四十九日百箇日と云フ事をも、一周忌と云フ事をも、第三年と云フ事をも知ラず、訪ハざらん志の程浅猿かるべし。聖霊の苦患をたすけずんば不孝の罪深し。悪霊と成てさまたげを成し候也。(以下略)」(総本山大石寺発行『昭和新定 日蓮大聖人御書』より一部抜粋)

以上のように、「回向功徳鈔」は初めから、僧を呼びに行っただけで死者の足に打たれた十五の釘が抜かれると、露骨に僧の存在意義を強調しており、「聖霊の苦患をたすけずんば不孝の罪深し、悪霊と成てさまたげを成し候也」とまで言って脅している。なお、冒頭の涅槃経云々はまったくのウソ。

死者を安んじ成仏させることができるのは僧だけだと、執拗に述べているのだ。ニセ曼荼羅である導師本尊を掲げ、僧が引導を渡さなければ成仏しないと信者を脅す日顕宗の教義と同類のものがある。

ニセ曼荼羅である導師本尊に書かれている「閻魔法皇」「五道冥官」の背後には、偽書を御書となす悪比丘らの頽廃があるのだ。

偽書「十王讃歎鈔」には、日蓮大聖人の御書にはない「冥官」という言葉が三カ所登場する。このこともまた、偽書「十王讃歎鈔」とニセ曼荼羅・導師本尊が、通底していることを示しているである。

さらに、「五道の冥官」は親鸞の『和讃』にも登場する、あるいは念仏の始祖である善導の『法事讃』に「五道太山」が登場するがそれにも通じていると見られる。「五道冥官」は、念仏の思想的系譜の延長線上にあるともいえる。

導師本尊――実に奇怪なる本尊である。

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