報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十章 霊山りょうぜん未散みさん

地涌オリジナル風ロゴ

第710号

発行日:1993年11月24日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

昭和十九年一月戸田会長は仏と生命の本質について悟達し
十一月には自ら霊山会の儀式に参列するさまを眼前に見た
〈仏勅シリーズ・第15回〉

昭和十九年、日本の敗色はいよいよ濃厚なものとなっていった。それにともない、国民をあらゆるかたちで戦争に向かわせるための、さまざまな統制がおこなわれ、国民に対する国家の締めつけは、ひじょうに厳しいものとなった。

戦争が敗色濃厚となってきたこと、統制により自由を失ったことで、国民全般をおおう雰囲気は、いっそう暗いものとなった。

一月には、女子挺身隊の結成と動員配置が決定され、二月には宮中閣議で「決戦非常措置要綱」が決定された。六月には米空軍が北九州を初空襲。七月にはサイパン島の日本軍が全滅する。

その結果、米軍はサイパン島を出撃基地として日本全土を爆撃することが可能となった。そのサイパン島の基地からB29爆撃機が日本本土を来襲し始めたのは、十一月一日のことであった。

これ以降、日本国民は空襲におびやかされ、はては家や肉親を失い、飢えに苦しむのである。

この昭和十九年、日蓮正宗は国策にそって、全国の布教区ごとにつくった報国団組織を通じて、僧俗を戦争に動員することに狂奔していた。

一月九日には、大石寺において「供木斧入式」がおこなわれたが、これを報ずる『大日蓮』(昭和十九年二月号)の記事は、戦意を鼓舞する典型的な記事であった。

「我が靈域の良材○○石を供出以つて縣下に示し米英撃滅の船筏たらしめんとす之れ然しながら佛祖*の安國立正の素願に叶ふものゝ又皇謨奉行の一端たらずんばあらず、今此の老杉や曩に供出せる大梵鐘と共に常恒に妙法の聲を聞き、我山の神*韻を傅ふるもの、又以て皇國の急を思ふや必せり、船舶となりては皇軍の兵糧戎器を速かに運載し、佛祖*の御心となりては兇敵の胸に立つ矢彈とならん然らば既*ちこの老杉は聖戰奉行天行を翼賛し本地の心を行ずる大菩薩たるべし」(『大日蓮』昭和十九年二月号より一部抜粋、○○は原文伏字)

大石寺で「供木斧入式」がおこなわれた翌日(一月十日)、藤本蓮城房は氷点下十六度の長野刑務所で獄死している。日蓮大聖人の仏法に忠実な僧は獄死し、仏法を捨て去った禿人たちは大石寺の巨木を軍に供出することに懸命であったのだ。

この昭和十九年は、創価学会にとって忘れ得ぬ年である。十一月十八日には、東京・巣鴨の東京拘置所において、牧口常三郎会長が獄死している。

戸田会長も、この東京拘置所に拘置されていたのだが、唱題と教学研鑚に精進し“獄中の悟達”をした。

宗教弾圧により壊滅した創価学会の再建は、この戸田会長の“獄中の悟達”に始まる。戸田会長の胸中に燃え上がった信仰の大確信が、戦後にあって七十五万世帯におよぶ地涌の菩薩の涌出を実現させるのである。

それでは、牧口会長の昭和十九年の動向をみてみたい。断るまでもないが、牧口会長は、前年の九月二十五日から東京拘置所の独居房に拘置されていた。

昭和十八年十一月二十日に起訴された牧口会長は、東京刑事地方裁判所に回され、そこで予審判事・数馬伊三郎の取り調べを受けていた。

この頃の牧口会長の様子については、牧口会長の獄中書簡に片鱗を求めるしか手だてがない。

一月二十六日、牧口会長の三男・洋三氏の妻・貞子さんにハガキを書いている。このハガキに牧口会長は、「御守り御本尊たのんで差入れてもらいたい」(『牧口常三郎全集』第十巻より一部抜粋)と書くが、検閲で無惨にも墨を塗られてしまった。

また、「心一つで地獄にも楽しみがあります」(同)と書いた箇所も墨が塗られている。いずれも検閲で塗られた墨の下に、かすかに文字を判ずることができるのである。二月二十七日の貞子さん宛の手紙には、

「当所の食事は米と麦ととうもろこしだが三度三度暖い汁(シル)があり、仲々旨いので、弁当ハ却って腹に悪いと入れないのです。元気で居ます」(同)

との記述がある。三月八日の夫人と貞子さん宛の手紙には、

「三月に入つて大雪ですが、さぞ本年は薪炭が不足であらう。私も病気せず、火のない室でくらして居ます。安心してくれ」(同)

と寒い独居房での生活が記されている。

高齢の牧口会長にとって、火の気のない独居房の生活は大変なことであったろう。どれほど春が待ちどうしかったであろう。三月十六日付の貞子さん宛のハガキには、春になった喜びがにじんでいる。

「当方無事。春になつて安心です。三度共暖いごはんに汁沢山。青年時代からあこがれて居た本が読めるので、却つて幸ひである」(同)

だが、肝心な予審判事・数馬伊三郎の取り調べは、昭和十九年になっても三月までまったくおこなわれなかったようで、三月二十七日付の貞子さん宛のハガキで、

「昨年カラ一向御調ベガ無イノデ困ルカラベンゴ師(ママ)ヲ早クト云フタノダ。依ツテ、住吉君ニ話シテ数島(ママ)判事様に面会シテ呉レルヨウに運ンデ下サイ」(同)

と、判事の取り調べを督促している。判事の取り調べがおこなわれたのは、四月十二日からのことのようで、四月十八日付のハガキで、「愈々数馬判事さんが十二日から当所へ毎日通つて調へてくれます」(同)と留守宅に知らせている。

この頃は、東京拘置所へ判事が出向いて取り調べをおこなったようだ。それが、五月八日付のハガキには、「毎日サイバン所へ通つて書いているが、一冊の本になります」(同)となっている。

今度は牧口会長が東京拘置所から裁判所に出かけて、みずから裁判所に提出する上申書を書いていたことが記されている。

当時、東京拘置所から裁判所に押送されるときは、手錠をかけられ深編笠をかぶらされ、他の被告らと一緒に数珠つなぎにされ、押送用の小型バスに乗せられたものである。牧口会長も同様の扱いを受けたのではあるまいか。

しかし、こうした屈辱的な扱いを受けても、牧口会長は予審判事に対し日蓮大聖人の教法を堂々と主張していたことがうかがえる。五月十八日付のハガキにも、

「毎日裁判所通ひで、大に取調べも進んでゐるし、数馬判事さんも、やさしく、法華経の御研究、かつ私の価値論も御理解下されます」(同)

との記述が見える。牧口会長が法華経、価値論について自己の主張を述べていたことがわかる。ただし、「やさしく」は検閲を意識しての表現か。七月四日のハガキには、

「一ヶ月モ毎日書イテ、一冊ノ本トナリ、数馬判事様へ上ゲタ。安心シタ。アトハ御本尊様ニ御マカセデス」(同)

と書かれており、牧口会長が自筆した一冊の本にも匹敵する膨大な量の上申書が提出されたことにより、判事の取り調べがこの七月の段階で一段落したことがうかがえるのである。

判事とのこのようなやりとりがつづく間も、牧口会長は獄中にあって師子王のごとく泰然として信仰を貫く。

「信仰さへして居れば必す『変レ毒為レ薬』は経文通り、今までの通りと、信して居れはこそ、此冬を元気で、くらせたのです」(五月八日付の三男の嫁・貞子さん宛ハガキ)

「信仰を怠なよ」(五月十八日付同)

「信仰ヲシツカリシテ安心シテ行キナサイ」(七月四日付同)

「何処でも、信仰が第一です。必ず朝夕ハ怠ることなかれです。私も無事です。何の不安もない。必ず『変毒為薬』となると存じます」(九月十二日付同)

「私ハ今、何ノ不安モナイ。毎日、読経ト読書トデクラシテ居マス」(九月二十五日付の牧口クマ、貞子さん宛ハガキ)

「信仰ガ第一ヨ」(同)

牧口会長が獄中にありながらも、信仰に通解し絶対的安心の境地にあったことが、これらの書簡の文字からはっきりと見てとれる。

しかし、そのような牧口会長のもとに、子息の洋三氏(亨年三十八歳)の戦死を知らせる十月五日付の手紙が届く。夫人と嫁に対し、「唯ダ冥福ヲ祈ル信仰ガ、一バン大切デスヨ」(十月十三日付同)と獄中より励まし、「私も元気デス」(同)と書いている。

そして、牧口会長は獄中にありながら子息の死にもめげることなく、

「カントノ哲学ヲ精読シテ居ル。百年前、及ビ其後ノ学者共ガ、望ンデ、手ヲ着ケナイ『価値論』ヲ私ガ著ハシ、而カモ上ハ法華経ノ信仰ニ結ビツケ、下、数千人ニ実証シタノヲ見テ、自分ナガラ驚イテ居ル。コレ故、三障四魔ガ紛起スルノハ当然デ、経文通リデス」(同)

と、絶対的確信を披瀝している。

日蓮大聖人曰く。

「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり」(兵衛志殿御返事)

【通解】潮が干るときと満ちるとき、また、夏と秋、冬と春との季節の変わり目には、必ず普段と異なることがある。凡夫が仏になるときもまた同じである。すなわち、仏になるときは、必ず三障四魔という障害が出てくるので、賢者は喜び、愚者はひるんで退くのである。

牧口会長が亡くなったのは、十一月十八日午前六時頃のことであったという。

その前日の十七日、牧口会長は東京拘置所四舎二階の独居房から病監に移った。牧口会長は病監に移るに際し、下着を着替え足袋を履きかえ威儀を正したという。

病監に移る途中、足元がもつれ転んだが、看守が手を貸そうとするのを断り、一人で最後まで歩き病監に入り、病監に入るとすぐ昏睡状態となったことが伝えられている。

翌十八日朝、牧口会長は巣鴨拘置所病監で息を引きとった。

牧口会長の遺体は頭と顔を白い布でおおわれ、縁戚の使用人であった小林秋高という人が、巣鴨拘置所から牧口会長の自宅(現在の東京都豊島区目白)まで背負って帰っていった。

牧口会長は獄中での死ではあったが、みずから装束を整えての覚悟の死であったことがうかがわれるのである。

日蓮大聖人曰く。

「法華経の行者として・かかる大難にあひ候は・くやしくおもひ候はず、いかほど生をうけ死にあひ候とも是ほどの果報の生死は候はじ、又三悪・四趣にこそ候いつらめ、今は生死切断し仏果をうべき身となれば・よろこばしく候」(四条金吾殿御返事)

【通解】法華経の行者として、このような大難にあったことを悔しく思わない。どれほど多くこの世に生を受け、死に遭遇したとしても、これほどの果報の生死はないであろう。また、三悪道、四悪趣に堕ちたであろうこの身が、いまは生死の苦縛を切断し、仏果を得べき身となったので大変悦ばしいことである。

だが、“法華経の行者”として、御本仏に賞賛される見事な殉教を遂げた牧口会長に対し、当時の人々の評価はあくまで冷たかった。

葬儀は十一月二十日におこなわれたが、不敬罪、治安維持法違反に問われ獄死した牧口会長は国賊として白眼視され、葬儀というのに弟子すら訪れる者は少なかった。

葬儀の模様について、出獄後の戸田会長は昭和二十五年十一月十二日に東京・神田の教育会館でおこなわれた牧口会長七回忌法要において次のように語っている。

「先生のお葬式はと聞けば、学会から同志が、藤森富作、住吉巨年、森重紀美子、外一、二名。しかも、巣鴨から、小林君が先生の死体を背負って帰ったとか。そのときの情けなさ、くやしさ。世が世でありとも、恩師の死を知って来ぬのか、知らないで来ないのか」(『戸田城聖全集』第三巻より一部抜粋)

出獄後、師と仰ぐ牧口会長の葬儀の状況を知った戸田会長の思いは、いかばかりであったろう。師のことを片時も忘れず、無念の思いを胸に焼きつけ、戸田会長はすべての魔障に戦いを挑む。

妙悟空(戸田会長)著『人間革命』において、主人公である戸田会長の名が、“巌窟王”を強く意識した“巌九十翁”となっている由縁を感ずる。

この牧口会長の死を戸田会長が知るのは、牧口会長が亡くなった翌年(昭和二十年)の一月八日のことで、戸田会長はいまだ囚われの身であった。

戸田会長は、そのときのことを想起し、昭和二十一年十一月十七日に東京・神田の教育会館でおこなわれた牧口会長の第三回忌法要において次のように語っている。

「思い出しますれば、昭和十八年九月、あなたが警視庁から拘置所へ行かれるときが、最後のお別れでございました。

『先生、お丈夫で』と申しあげるのが、わたくしのせいいっぱいでございました。

あなたはご返事もなくうなずかれた、あのお姿、あのお目には、無限の慈愛と勇気を感じました。

わたくしも後をおうて巣鴨にまいりましたが、朝夕、あなたはご老体ゆえ、どうか一日も早く世間へ帰られますように、御本尊様にお祈りいたしましたが、わたくしの信心いまだいたらず、また仏慧の広大無辺にもやあらん、昭和二十年一月八日、判事より、あなたが 霊鷲山へお立ちになったことを聞いたときの悲しさ。杖を失い、燈を失った心の寂しさ。夜ごと夜ごと、あなたを偲んでは、わたくしは泣きぬれたのでございます」(『戸田城聖全集』第三巻より一部抜粋)

日蓮大聖人の仏法を、まさに文字どおり不自惜身命の姿で守り抜いた牧口会長は、獄の中で尊い生涯を終えた。だが、師・牧口会長の死は、出獄した弟子・戸田城聖の死身弘法によって報われる。

法難にあって、師弟子ともに獄に囚われたことにより、戸田会長は両者の絆が三世不変の金剛不壊なものであることに気づいたのであった。それ故に、戸田会長は牧口会長の志を継ぎ、大法弘通を決意したのであった。

日蓮大聖人曰く。

「よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず」(華果成就御書)

【通解】よい弟子をもてば師弟はともに成仏をし、悪い弟子を養えば師弟ともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできない。

それでは、牧口会長が獄死したこの昭和十九年、戸田会長は獄にあってどのような生活を送っていたのであろうか。

昭和十九年正月ともなると、逮捕されてから半年を経過したこともあり、戸田会長は獄外の家族にひじょうに細やかな心遣いをしている。その一方で、経営する会社の中には、整理を余儀なくされたものもあったようだ。

戸田会長は獄内にありながら、家族に温かい配慮をし会社への指図をしている。それらの記述が、獄中書簡の随所に見られるのである。

「オ父様ヤオ母様ニ、オ身体ヲ大切ニシテ丈夫デイテ下サイ。今度ノ不孝ノオワビニ、帰ル日ニハ倍々モ大切ニ致シマスト。マタ死ニモノ狂イデ働クカラ、トテモイソガシクナルガ坊ヤノ為ニ必ズ一家団ランノ日ト旅行ノ日トヲ予定シテ働キマスト。次ニ『日小』ニ整理ヲ命ジタカラ、外部カラ自宅ニ取リ引キ上及ビ貸借上ノ話ガアッタラE君ガ全部僕ノ代理人トシテ、日本小学館専務席ニ座ル様命ジテアルカラ、E君ニ話ス様。以上オ父サンヘ」(青娥書房発行『若き日の手記・獄中記』所収の昭和十九年二月八日付の夫人宛書簡)

「留守ハ並大抵ノコトデナイト思イマス。今少シト一フン張リ願イマス。日小モ整理ノ為I子ノ入用ガ会社カラ届カナイカモ知レマセヌ。ソノ時ハ日本商事ノ取リ立テヲ厳重ニスルカ、事情ヲ話シテ集金シテ仮払イトシテI子ニ渡シテ下サイ。万一ノ場合ハ子ドモノ不動銀行ノ金ヲ使ッテオイテ下サイ。長ラク不孝タダ恐縮デ、オ母様ト一緒ニ懐シク、コノゴロ夢ヲ毎晩見マス。皆ノコト心配シテオリマス」(同昭和十九年二月二十三日付の夫人の父宛書簡、文中のI子は夫人の名)

「何カト親切ニシテモラッテ有難ウ。僕ノ留守中、僕ニ成リ代ワッテオ父サン、オ母サンヲ大切ニ」(同昭和十九年二月二十三日付の夫人の弟宛書簡)

「生活費のことで大変心配している。私の帰れるのも先はわからない。会社の方は一切整理だから、毎月の仕送りは面倒であろう、と思う。私は今まで他人の為のみ『よく』してやってきた。いつも私たちが苦しむのも仕方ない。貴女もしっかりして私の自由になる日まで待ちなさい。一切の掛け金をやめなさい。債券のご奉公以外は。ニコニコはよして掛け金を全部お父様に行って取って来てもらいなさい。そしてそれを生活費にしておくこと。商事会社の方の事もどうなっているか。心配している」(同昭和十九年四月二十一日付の夫人宛書簡)

「何かと差し入れの事、ご苦労に思います。物資不足の時、何とも申しわけがない。この物資不足はまだまだひどくなる。そのつもりで生活計画を立てなさい。私の差し入れも貴方以外にはだれも真剣になってくれる者がないのだから、どうか今しばらくと、熱心にがんばって下さい。私のいた時の様に、だれもが親切でなくても、それはあたりまえなのだから、そのつもりで一人で、しっかりと万事に働くのですよ。人を頼らず私の言った通りよく守って、その通りにしなさい。不動貯金も解約しましたか。解約しましたら現金をうけとっておくのですよ」(同昭和十九年五月十日の夫人宛書簡)

「オ父様オ母様永イコトゴ心労。行キトドイタオ世話。タダタダ感謝デゴザイマス。ドウカ強ク生キテイテ下サイ。不孝ノ罪ハ、ドンナニシテモオ返シ致シタイノデス。今ドンナニ苦シクテモ貧シクテモ、私ノ生キテイル限リ『富メル者』トノ自信ヲ失ワズニイテ下サイ」(同昭和十九年八月十一日付の夫人の父宛書簡)

「決シテ、諸天、仏、神ノ加護ノナイトイウコトヲ疑ッテハナリマセヌ。絶対ニ加護ガアリマス。現世ガ安穏デナイト嘆イテハナリマセヌ。真ノ平和ハ清浄ノ信仰カラ生ジマス。必ズ大安穏ノ時ガマイリマス。信心第一、殊ニ子ドモノ為ニハ、信仰スル様。ゴ両親トモ、信心ハ捨テマセヌ様」(同昭和十九年九月六日付の夫人宛書簡)

「オ父サントハマダマダ会エマセヌガ、二人デ約束シタイ。朝何時デモ君ノ都合ノヨイ時御本尊様にムカッテ題目ヲ百ペン唱エル。ソノ時オ父サンモ、同時刻ニ百ペン唱エマス。ソノウチニ『二人ノ心』ガ、無線電信ノ様ニ通ウコトニナル。話モデキマス。コレヲ父子同盟トシヨウ。オ母サンモ、オ祖父サンモ、オ祖母サンモ、入レテアゲテモヨイ。オ前ノ考エダ。時間ヲ知ラセテ下サイ」(同昭和十九年九月六日付の子息宛書簡)

みずからの身を獄に置きながら、家族のさみしさ、不自由さに思いをいたし、その一方で、わが身を削って築いた事業の撤退を間接的に指示する。その戸田会長のもどかしさ、やるせなさは想像を超えたものがある。

しかし、このような中でも、戸田会長は着実に信心の「修養」をしていた。獄中にあって、日蓮大聖人の仏法の真髄に迫ろうと精進していたのである。

戸田会長は、「生命論」に次のように書いている。

「冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思索は思索を呼んで、ついには人生の根本問題であり、しかも、難解きわまる問題たる『生命の本質』につきあたったのである」(『戸田城聖全集』第三巻所収「生命論」より一部抜粋)

戸田会長は、獄中にあって唱題に唱題を重ね、深い思索に入っていったのである。この昭和十九年、戸田会長は信心に立脚した思索の結果、二つの大きな悟達をした。

一つ目は一月に、法華経の開経である無量義経の“三十四非”の偈より仏とは生命であることを覚知し、二つ目は牧口会長の亡くなった十一月に、霊鷲山会の儀式に参列するわが身を眼前に見、永遠の生命を悟り師弟不二を実感し今生の使命を確固たるものとした。

「そこで、私は、ひたすらに法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。そして、法華経の不思議な句に出合い、これを身をもって読みきりたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を唱えぬいていた。唱題の数が二百万べんになんなんとするときに、私はひじょうに不思議なことにつきあたり、いまだかつて、はかり知りえなかった境地が眼前に展開した。よろこびにうちふるえつつ、一人独房のなかに立つて、三世十方の仏、菩薩、一切の衆生にむかって、かく、さけんだのである。

遅ること五年にして惑わず、先だつこと五年にして天命を知りたり」(同)

この戸田会長の悟達と大確信が、仏意仏勅の創価学会が再建されるにあたり、その核となるのである。

戸田会長が獄中にあって仏道修行に励み悟達したことは、戸田会長が昭和十九年に書いた獄中書簡に認めることができる。

まず、第一回目の悟達である“三十四非”についての悟りは、昭和十九年一月十日であったようだ。夫人宛の書簡に、そのことが書かれている。

「一月十日ニ非常ナ霊感ニ打タレ、ソレカラ非常ニ丈夫ニナリ肥リ、暖カクナリ、心身ノ『タンレン』ニナリマシタ。立派ナ身体ト心トヲ持ッテ帰リマス」(青娥書房発行『若き日の手記・獄中記』所収の昭和十九年二月八日付の夫人宛書簡)

無量義経に書かれた仏の姿が、生命そのものであるとのこの悟りは、戸田会長のその後の獄中における仏道修行をより意欲的なものとした。

「御書(日蓮聖人遺文集)ダレカラカ借リテ下サイ。数珠ノ差シ入レ願ウ。法華経ノ講義書、千種先生カ堀米先生カラ借リテ入レテ下サイ(ナルタケ一冊カ二冊ノモノ)」(同昭和十九年二月二十三日付の夫人宛書簡)

戸田会長は昭和二十年七月三日に出獄したが、出獄直後の同年七月に「妹の主人宛」に書いた手紙において、“獄中の悟達”について言及している。

手紙は、次のように始まっている。

「K雄さん、城聖は(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、三年以来、恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連らなり、独房に修行すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身『法華経を読む』という境涯を体験し、仏教典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、日本を救い、東洋を救う一代秘策を体得いたしました」(同昭和二十年七月の妹の主人宛書簡)

戸田会長は、このように手紙を書き起こし、まず自分が獄中にあったときのお礼を述べ、そして次のように綴っている。

「私のこのたびの法華経の難は、法華経の中のつぎのことばで説明します。

在在諸仏土常与師倶*生

と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億年前からの規定を実行しただけでございます。

私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりして、過去も将来も離れない仲なのです。こんなことを言いますと、兄貴は夢のようなことを言っている、法華経にこりかたまっていると一笑に付するでしょう。

しかし、哲学的に電気化学の原理、電子論に原子論に研究を加えれば、加えるほど、生命の永久を確信しなくてはならないのであります。K雄さん、人の一生は、この世きりではありません。また親子、兄弟、夫婦、主従、師弟の因縁ではありません。その中の師弟の因縁の法華経原理を身をもって読むといいまして、自分の身に体験し体現したのが、私の事件です。深遠な教理と、甚深な信仰と、熱烈な東洋愛、燃えた私の心境をつかんでまいりました」(同)

戸田会長は、昭和二十一年十一月十七日に東京・神田の教育会館でおこなわれた牧口会長の三回忌法要においても、牧口会長との三世不変の師弟不二について言及している。

「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。そのおかげで、『在在諸仏土・常与師倶*生』と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができました。なんたるしあわせでございましょうか。

創価教育学会の盛んなりしころ、わたくしはあなたの後継者たることをいとい、さきに寺坂陽三君を推し、のちに神尾武雄君を推して、あなたの学説の後継者たらしめんとし、野島辰次氏を副理事長として学会を総括せしめ、わたくしはその列外に出ようとした不肖の弟子でございます。お許しくださいませ。しかし、この不肖の子、不肖の弟子も、二か年間の牢獄生活に、御仏を拝したてまつりては、この愚鈍の身も、広宣流布のために、一生涯を捨てるの決心をいたしました。ごらんくださいませ。不才愚鈍の身ではありますが、あなたの志を継いで、学会の使命をまっとうし、霊鷲山会にてお目にかかるの日には、かならずやおほめにあずかる決心でございます」(『戸田城聖全集』第三巻より一部抜粋)

師を慕う弟子の真心が伝わってくる。師弟は生死を超えた仏法上の契約である。

日蓮大聖人曰く。

「過去無量劫より已来師弟の契約有りしか、我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ・忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事・是れ偏に過去の宿習なるか」(最蓮房御返事)

【通解】この経や釈を考えてみるに、過去の計り知れない昔から師弟となる約束があったのだろうか。われらが末法濁世において生を南閻浮提の大日本国に受け、恐れ多くも諸仏出世の本懐である南無妙法蓮華経を口に唱え、心に信じ、身に持ち、手にもてあそぶことは、ひとえに過去の宿習であろうか。

戸田会長は、「不可思議な境涯」を「牧口先生の亡くなったころ」に「体得」したと、『大白蓮華』(昭和二十六年七月十日付、同年八月十日付)に寄稿した論文「創価学会の歴史と確信」の中で明記している。

「ちょうど、牧口先生の亡くなったころ、私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、御本仏の慈悲によって体得したのであった」(同)

この十一月の悟達については、戸田会長が妙悟空のペンネームで著した『人間革命』に、きわめて如実に描かれている。

「『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経』

十一月中旬の、水のように空が晴れている……ある朝のこと、巌さんの題目を唱えている声が独房から洩れていた。

もしも、鉄の扉の前に立つて、朝々、声に聴き入る人があつたら、彼の唱題している声から挑みかかるような烈しさが消えて、静かに澄んできているのに気が付いたであろう。

日夜、苦悶をつづけて、今は疲労のドン底にいるのだが、法華経と取り組んで熱烈に思索し、深く瞑想し、苦悶をつづけることによつて、心の濁りや身体の錆が落ちてきたとはいえないであろうか。

『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……』

東の空へ昇つた太陽が独房の窓へ射し込んで、牛乳壜の丸い蓋で拵えた数珠を手にしている巌さんの額や鼻の辺を琥珀色に染めており、時々陽射しを跳ねて眼鏡が光つている。

今年になつて数えはじめたお題目は、百八十万遍を越えている。

毎朝と同じように、今朝も、彼は大石寺の御本尊を心に念じながらお題目を唱えているが、数が進むにつれて、春に降る雪を見るよう、しんしんと心が落ち着いてきて、清々しく、ほのぼのとした楽しさが湧いてきている。

『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……』

巌さんの心は、今、春の野を吹く微風のように軽く柔かくて譬えようもなく平和であつた。

夢でもない、現でもない、……時間にして、数秒であつたか、数分であつたか、それとも数時間であつたか……計りようがなかつたが、彼は、数限りない大衆と一緒に虚空にあつて、金色燦爛たる大御本尊に向つて合掌している自分を発見した。

そして、法華経二十八品の内の従地涌出品にある『是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて、下より発来せり。一一の菩薩皆是れ大衆唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を将いたり。況や、五万、四万、三万、二万、一万、恒河沙の眷属を将いたる者をや。況や復、乃至一恒河沙、半恒河沙、四分の一、乃至千万億那由佗分の一なるをや。況や復千万億那由佗の眷属なるをや。況や復一千、一百乃至一十なるをや。況や復、五、四、三、二、一の弟子を将いたる者をや。況んや復、単己にして遠離の行を楽えるをや。是の如き等比無量無辺にして、算数、譬喩も知ること能わざる所なり。是の諸の菩薩地より出で已つて、各虚空の七宝妙塔の多宝如来、釈迦牟尼仏の所に詣ず。致り已つて、二世尊に向いたてまつる……』彼は経文通りの世界にいることを意識している。

巌さんはこの大衆の中の一人であつて、永遠の昔の法華経の会座に連らなつているのであり、大聖人が三大秘法抄で仰せられている『この三大秘法は、二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主、大覚世尊より口決相承せしなり……』というお言葉が、彼の胸へ彫込まれてでもいたように、この時、ありありと浮き出してきた。

これは、嘘ではない! 自分は、今、ここにいるんだ! 彼は叫ぼうとした時、独房の椅子の上に坐つており、朝日は清らかに輝いていた。

巌さんは一瞬茫然となつたが、歓喜の波がひたひたと寄せてきて、全身は揉まれ、痺れるような悦びが胸へ衝上げてきて、両眼から涙が溢れだし、袂を探つてハンカチを取り出して、眼鏡を外して押えても、堰を切つたように涙が湧いて止め度がなく、彼は逞*しい肩を顫わせて泣きつづけた。

しばらくして、巌さんは椅子を立つて題目を高々と唱えだした。

『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……』

題目を唱え終つた刹那、彼の胸の内に叫び声が起つた。

(おお! おれは地涌の菩薩ぞ! 日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、光栄にも立ち会つたのだぞ!)

巌さんは眼鏡の底の眼を大きく瞠き、歓喜に戦く胸を抱締めて独房の中を歩き廻つていたが、やがて机へ帰つて、法華経を開き、従地涌出品を読みなおし、寿量品を読み、属累品を読みなおした。

(ほう!)

彼は眼鏡の内で幾度となく瞬いたが、今、眼の前に見る法華経は、昨日まで汗を絞つても解けなかつた難解の法華経なのに、手の内の玉を見るように易々と読め、的確に意味が汲み取れる。

それは遠い昔に教つた法華経が憶い出されてきた感じ……不思議さを覚えながらも感謝の想いで胸がいつぱいになつた。

(よし! ぼくの一生は決つた! この尊い法華経を流布して、生涯を終るのだ!)

支那の聖人孔子は四十にして惑わず、五十にして天命を知るといつたとか、彼はうん! とうなつて立ち上つた。そして部屋の中を行きつ戻りつしつゝ叫んだのであつた。

『彼に遅るる事五年にして惑わず、彼に先立つこと五年にして天命を知る』

時に彼の年は四十五歳であつた」(妙悟空著『人間革命』より一部抜粋)

この戸田会長の“獄中の悟達”により、創価学会の再建がなされる。戸田会長の“獄中の悟達”は、まさに御本仏日蓮大聖人の仰せのとおりであった。

日蓮大聖人曰く。

「大事の法門をば昼夜に沙汰し成仏の理をば時時・刻刻にあぢはう、是くの如く過ぎ行き候へば年月を送れども久からず過ぐる時刻も程あらず、例せば釈迦・多宝の二仏・塔中に並座して法華の妙理をうなづき合い給いし時・五十小劫・仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂わしむと云いしが如くなり、劫初より以来父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるるの人我等が如く悦び身に余りたる者よも・あらじ、されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩も行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し」(最蓮房御返事)

【通解】大事な法門を昼夜に思索し、成仏の理を時々刻々に味わっている。このように過ごしているので、年月を送っても長く感じず、過ぎた時間も、それほどたっているように思えない。たとえば釈迦・多宝の二仏が多宝塔の中に並坐して法華経の妙理をうなずきあわれたとき、五十小劫という長遠の時間が経っていたにもかかわらず、仏の神力によって諸々の大衆に半日のように思わせた、と法華経従地涌出品第十五に説かれているようなものである。

この世界の初め以来、父母・主君等のお咎めを受け、遠国の島に流された人で、私たちのように喜びが身にあふれている者は、まさかいないであろう。

それゆえ、私たちが住んで法華経を修行する所は、いずれの所であっても常寂光の都となるであろう。私たちの弟子檀那となる人は、一歩と歩まないうちに天竺の霊鷲山を見、本有の寂光土へ昼夜のうちに往復されるということは、言いようがないほどうれしいことである。

戸田会長が、日蓮大聖人の弟子として仏法の真髄に触れた喜びにひたっていたこの頃、東京刑事地方裁判所の予審判事である数馬伊三郎が、狂おしいまでに戸田会長を憎悪するのであった。

「毎日、唱題と祈念と法悦の日はつづけられるとともに、不思議や、数馬判事の私を憎むこと山より高く、海よりも深き実情であった」(『戸田城聖全集』第三巻所収「創価学会の歴史と確信」より一部抜粋)

このため、予審判事・数馬は厳罰を昭和十九年の暮れに受ける。

「法罰は厳然として、彼は天台の一念三千の法門の取り調べになるや、重大な神経衰弱におちいり、十二月十八日より三月八日まで一行の調書もできず、裁判官を廃業してしまったのである。

牧口先生をいじめ、軽蔑し、私を憎み、あなどり、同志をうらぎらせた彼は、裁判官として死刑の宣告をうけたのである」(同)

仏法における功徳と罰――それを屹立させて、昭和十九年は終えた。

牧口会長の獄死は、数十億の人類から見れば大海の一滴にも似た、誰にも意識されないような死であった。

だが、牧口常三郎会長の遺志は、弟子・戸田城聖会長の生命の中に確然と存在しつづける。牧口会長の殉教は戸田会長の大情熱と化し、創価学会に集う“地涌の菩薩”の壮大なる陣容として具現化した。

その創価学会は、第二代戸田会長と第三代池田大作会長という、余人の侵しがたい師弟の絆を経て、飛躍的に発展する。いまや日蓮大聖人の大慈大悲に潤い、創価学会に集う一千万人の仏子が広宣流布を実現するために世界を舞台に戦っている。

日蓮大聖人曰く。

「過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか・釈迦多宝こそ御存知候らめ、『在在諸仏土常与師倶*生』よも虚事候はじ」(生死一大事血脈抄)

【通解】過去の宿縁から今世で日蓮の弟子となられたのであろうか。釈迦多宝の二仏こそご存じと思われる。化城喩品の「在在諸仏の土に、常に師と倶*に生ぜん」の経文は、よもや虚事とは思われない。

師弟不二という三世不変の縁があってこそ、大法は弘通されるのである。弟子たる者の願いは、「在在諸仏土・常与師倶*生」にしかず。
(「仏勅」シリーズは第885号につづく)

獄中から夫人に宛てた牧口会長の手紙

獄中から夫人に宛てた牧口会長の手紙

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