報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十章 父子ふし暗証あんしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第358号

発行日:1991年12月24日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日蓮大聖人に北条弥源太が御供養申上げた宝刀が盗まれた
捜査当局は大石寺内部の犯行と睨んだが迷宮入りとなった
 〈法難シリーズ・第43回〉 ―最終回―

小笠原慈聞が主宰していた月刊誌『世界之日蓮』(昭和十六年十一月号)は、驚嘆すべき事件を報じていた。宗祖日蓮大聖人が所持されていた、総本山大石寺のかけがえのない寺宝ともいうべき「三條小鍛冶宗近の宝刀」などが、御宝蔵から盗まれていたことを暴露したのである。

「三條小鍛冶宗近の宝刀」とは、北条弥源太が日蓮大聖人に御供養申し上げた物で、日蓮大聖人は諸国への弘通に、この太刀を所持されたことが記録に残されている。

ちなみに、北条弥源太について触れれば、北条弥源太は日蓮大聖人御在世中、鎌倉幕府の実権を握る北条氏の一門でありながら、宗祖日蓮大聖人門下であった人である。

生没年など詳しいことは不明だが、文永五年十月、日蓮大聖人は「十一通御書」を認められたが、その一つは北条弥源太に宛てられたものであった。幕府権力に真っ向から折伏をもって臨まれた日蓮大聖人から見ても、北条一門である北条弥源太は、戦略的にも重要な役割を果たすべき立場にあったようだ。

その北条弥源太が、日蓮大聖人に太刀と刀合わせて二振りを御供養申し上げたことがある。このことに触れて、日蓮大聖人より北条弥源太に宛られた御書が現存している。

「又御祈祷のために御太刀同く刀あはせて二つ送り給はて候、此の太刀はしかるべきかぢ・作り候かと覚へ候、あまくに或は鬼きり或はやつるぎ・異朝には・かむしやうばくやが剣に争でか・ことなるべきや・此れを法華経にまいらせ給う、殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬えば鬼の道心をおこしたらんが如し、あら不思議や不思議や、後生には此の刀を・つえとたのみ給うべし」(弥源太殿御返事)

【通解】また御祈祷のために太刀と刀と合わせて二振をお送りいただきました。この太刀は相当な刀鍛冶が作ったと思われる。日本の天国、あるいは鬼切あるいは八剣、外国の干将・寞耶の剣とどうして異なるであろうか。これを法華経(御本尊)に供養されたのである。あなたのお持ちのときは悪の刀であったが、いまは仏前に来たのであるから、善の刀である。たとえば鬼が道心を発したようなものである。まことに不思議なことである。後生にはこの刀を杖と頼みなさい。

 

この日蓮大聖人ゆかりの太刀と刀は、富士大石寺の寺宝として後世に伝えられてきた。「富士大石寺明細誌」(『富士宗学要集』第五巻収録)には、「太刀 三条小鍛冶宗近作 二尺一寸 一腰 蓮祖の所持諸弘通の節之レを帯す、北条弥源太殿より之レを献ず」と記されている。

この太刀と同時に北条弥源太より、日蓮大聖人に御供養された刀は、「富士大石寺明細誌」に記された刀のいずれに該当するかは、寡聞にして特定できないが、おそらくは先の太刀に続いて記されている「劔 久国作 九寸五分 一口 蓮祖弘通の節笈中に入る」ものではないだろうか。

いずれにしても昭和十六年十一月に、日蓮大聖人が身近に置かれていた太刀が盗まれたことが表沙汰になったのだ。『世界之日蓮』には「宝刀盗難事件」として、次のような記事が掲載されている。

「十月初め愚生の手元へ二本の『ハガキ』が配達された。『本山大石寺門徒有志』として 

一、昨年六月某日夜本山御宝蔵の錠前を破壊してある事を翌日発見、其筋の出張を請ひ内部を調べたるに『重宝』に異状なしとし、其まま放任せり。

二、然るに本年四月十五日霊宝虫払に際し什宝入れの長持を検べたる處驚くべし『三條小鍛冶宗近の宝刀』(大聖人所持)『波平行安』の銘刀(富田家寄附)外六点計八点の銘刀紛失せることを発見し、総代は驚愕惜く處を知らず、是を宗務当局に申込むと、此又驚くべく当局は『警察署にすら盗人の逃げ入る当節である』と放言し、之を『秘密』に付すべしと命ぜり、依て爾来何等かの措置をとるものと信じ、隠忍今日に及びたるに、今以て其の様子も見えざるは奇怪と申す外なし。

三、右什宝入れの長持には『什物帖』、二冊入れ置きたるに、之を破毀せるものか見当らず、然らば右銘刀の外何物が紛失せるや不明にして、今後調査の資料なきことを悲しまざるを得ない」(『世界之日蓮』昭和十六年十一月号)

この記事から確認できる事実は、「昨年六月某日夜」御宝蔵の錠前が壊されていたが、このとき、一応は異状がないとされた。だが、昭和十六年四月十五日の虫払いに際し、日蓮大聖人所持の刀など八振りの銘刀がなくなっていることが判明したのだった。

なお、「昨年六月夜」とは、昭和十五年六月十四日の夜のことである。

この宝刀盗難事件に対し、総本山第六十一世水谷日隆上人率いる日蓮正宗中枢は、内部の責任を追及することもなく不問に付し、事を内密に処理しようとしていた。しかし、それを反主流であった小笠原慈聞らが、公にし、責任を追及し始めたのだった。

この盗難事件は、日本の宗教界にとっても注目に値する不祥事であった。『世界之日蓮』がこの事件を報じる直前、『中外日報』(昭和十六年十月九日付)が、「奇怪大石寺に盗難 無責任な本山当局」と題して同盗難事件を報道している。

報道内容は、先に紹介した『世界之日蓮』が掲載した「本山大石寺門徒有志」が出した「ハガキ」の文面を紹介するものであった。

それでは、御宝蔵に厳重保管されていた宝刀は、誰が盗んだのか。いまだもって犯人は不明である。だが、当時『世界之日蓮』などが指摘しているように、捜査当局は内部犯行と見ていた。

御宝蔵には「一夜番」という不寝番の僧が、事件当時もついていた。その者との連携がなければ、宝刀を盗み出すことは不可能である。もし「一夜番」の油断をついたにしても、多くの長持の中から、金銭的価値のある刀八振りを所蔵した長持を開け、それを盗み出すことは、とうてい不可能である。当時の捜査当局の睨んだとおり、内部犯行と見るのが妥当だろう。

室町時代には、大石寺を丸ごと銭二十貫文で売りとばした三人の悪僧がいた。江戸時代にも、御宝蔵の中の宝物がしばしばなくなったようだ。堀日亨上人は、『富士宗学要集』第八巻に、「蜂須賀家臣斎藤忠右衛門等状」を紹介しておられる。その書状の前文において、日亨上人は次のように書かれている。

「祖滅三百五十九年此、敬台院の命を受けて斎藤武知の両臣が細密懇切に大石寺を護持するの件々此の状に溢れたり、宝物厳護の為に宝蔵番の僧員を増すべき事宝物の出納を大事にする事、什物の法衣の扱を大事にして缺損無きやう注意する事、惣て什物は永遠に寺附き常住物、住職は交代のものなれば什物宝物を大事に扱ふ事、住職によりては缺損の什物を補充して不都合なからしむる仁もあるが、多くは什宝を売却して私慾にふけるもあり、宝物は当番交代の彼岸、盆、会式前と三度に改めて受渡を為すべく虫払の日は七月の初に定めて準備を怠らぬやう等数々の注意が為されてある其文の底には暗に精師の住職として物質的扱ひぶりの不満が洩らされてるやうで、能所の性格の相違や周囲の人々の感情も加はつて居るものと見ゆる」

当時の大檀那である敬台院が、「宝物厳護の為に宝蔵番の僧員を増すべき事」などを家臣を通じて助言しているのだ。この文の中で注目されるのは、大石寺住職の「多くは什宝を売却して私慾にふけるもあり」とされている点である。

御宝蔵にある宝物を処分して、私慾にふける住職が多くいたのだ。住職がそうなら、その他の末僧に至ってはまったく信用ができない。そこで、相互監視のためにも「宝蔵番」を増やせと助言している。大石寺の僧の中に盗人がいることは、昭和の時代にはじまったことではないのだ。

明治に入ってからは、大石寺の僧の放蕩三昧は限度を超えたものがあり、塔中のそこかしこで樽酒を囲んで酒盛りをしていた。ために地元の大宮町(富士宮市)あたりでは、大石寺だといえば塩の一升も貸さなかった。

あげくの果ては、遊興費にこと欠いて、五重塔の銅瓦をトタン板に替え、その銅瓦を売った代価をもって自坊を旅館のごとく豪華にし、はたまた呑み代にする坊主まであらわれたのである。

そして、昭和十五~六年頃に至っては、日蓮大聖人由縁の宝刀まで紛失してしまうのである。それも悪僧の内部犯行であることは、まず間違いない。

これが、創価学会出現以前の大石寺の赤裸々な姿である。末法の御本仏である日蓮大聖人の教法を弘通しなければならない富士大石寺にしてからが、まさに“法滅”そのままの姿を現じていたのだった。

「逢難」「法難」シリーズ 終

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