報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十章 父子ふし暗証あんしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第355号

発行日:1991年12月21日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

国柱会の田中智学の直弟子たちを猊下自らが御開扉させ
「各々ヨウコソの御登山、佛三寶も御滿悦」と挨拶した
 〈法難シリーズ・第41回〉

『大日蓮』の昭和十年三月号に、「日布上人をしのび奉りて」と題する一文が掲載されている。あるとき、日布上人が国柱会幹部や未入信者の宗教学者に対し、戒壇の大御本尊様の御開扉をしたという記述である。

「ある時姉崎博士それから國柱會の山川長瀧等の諸先生が登山されたことがあつた。上人の御導師で戒壇の大御本尊の御開扉、終りて徐ろに參詣者に向直られたる上人は、『各々ヨウコソの御登山、佛三寶も御滿悦のことゝ存ずる。……各々が無始以来の罪障消滅現當二世の所願滿足と厚く御祈念申上げました。南無妙法蓮華經……』と一拶された」(『大日蓮』昭和十年三月号)

日布上人は、総本山第五十五世法主で明治七年十二月に登座され、明治十八年六月に御隠尊、大正八年三月に御遷化された。

それでは御開扉を受けた、「姉崎博士」「山川」「長瀧」なる人物は、どのような人々であろうか。

「姉崎博士」とは、言うまでもないが、高名な宗教学者である姉崎正治博士のことである。略歴を型通りつづると、明治二十九年、東京帝国大学哲学科卒業。以降、宗教の発展を研究し、明治三十三年に東京帝国大学助教授となる。

明治三十八年には東京帝国大学に宗教学講座が開設されたが、その担任教授となった。昭和五年には日本宗教学会会長に就任。姉崎博士は文字どおり日本宗教学の草分け的存在であり、重鎮であった。

その姉崎博士が、どのような経緯から国柱会の幹部と総本山大石寺に登山したかは不明だが、いずれにしても『大日蓮』の記述のとおり、御開扉を受けたのである。

一方、国柱会の「山川」「長瀧」とは、どのような人物だろうか。

国柱会幹部の「山川」とは、山川智応のことと思われる。山川智応は、明治十二年生まれ。明治二十六年に田中智学の立正安国会に入り、明治三十二年より田中智学の師子王文庫において活動。田中智学の直弟子である。

「長瀧」とは山川智応と同様、田中智学の直弟子である長瀧智大のことと思われる。「山川」「長瀧」ともに国柱会の中枢幹部である。

田中智学は十歳のとき(明治三年)、日蓮宗妙覚寺の河瀬日進に師事し得度。明治十二年には日蓮宗を離れ還俗。明治十七年に立正安国会を設立、布教活動をする。大正三年に国柱会を設立し、その開祖となる。以降、皇室重視の国体を宣揚する運動に傾いた。

国柱会は、本尊を佐渡始顕の曼荼羅としている。所依の経典は法華経である。昭和四十年よりは、日蓮宗身延山久遠寺の輪番奉仕などもしている。

断るまでもないが、国柱会と日蓮正宗のあいだには縁もゆかりもない。国柱会は、いわば日蓮宗身延派の流れをくむ在家仏教教団である。日蓮正宗からみれば、国柱会は明らかに邪義を立てている。

その邪宗の最高幹部二名に御開扉を受けさせたというのだから、当時の日蓮正宗にあっては、謗法厳誡という意識が実に低かったのだと断定せざるを得ない。

この御開扉がおこなわれた年月を特定するのは、はなはだむずかしいが、推測すれば、国柱会が結成された大正三年から日布上人が逝去された大正八年のあいだということになるだろう。

昭和十年三月号の『大日蓮』においては、先に引用した文につづいて次のように記述されている。

「諸先生方は驚いたかも知れぬ。しかし上人よりして見れば當時高名な先生方も、學者も富豪も、村翁野媼も擇ぶ所なく等しく佛子、等しく導き等しく語るべきなりとせられたに違いない。賢不肖、貧富、老少、美醜等に於て一異の相を見ざる所に超脱性が輝く。吾人は此の超脱性に對して等しく頭を下げさせられる。難有といふ宗教的情操はこんな所にあるのだな……と自分はツクヅク感じたことであつた」(同)

日布上人が邪宗の最高幹部をも「仏子」として遇されたと賞賛しているのだが、謗法を責めずして詐り親しむことは、宗祖日蓮大聖人の固く誡められたことである。その信心のイロハが、当時の日蓮正宗には失われていたのである。日蓮正宗機関誌に、このようなことを堂々と書いてもなんら問題にされることもなかったのだ。

御当代であったか御隠尊であったか定かではないが、日布上人みずから邪宗の最高幹部に御開扉を受けさせ、「各々ヨウコソの御登山、佛三寶も御滿悦のことゝ存ずる」とは、実に恐れ入ったことである。

謗法に染まった日蓮正宗を、創価学会が今日に至るまで浄化してきたことが、この一事をもっても理解されるのである。

家族友人葬のパイオニア報恩社