報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

六章 両舌りょうぜつ破法はほう

地涌オリジナル風ロゴ

第238号

発行日:1991年8月26日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

大正時代は飛行機、自動車に御本尊を奉掲してビラを撒き
邪宗の者と一緒に太鼓をたたいて唱題し提灯行列していた
〈法難シリーズ・第16回〉

大正十(一九二一)年、日蓮大聖人の御聖誕七百年を祝っての諸行事がおこなわれた。

東京においては二月十六日、日蓮正宗法華講の一つである「立正統一講」が、「日蓮大聖降誕七百年記念 飛行機及自動車大宣傳」を催している。

この「大宣伝」については、日蓮正宗機関誌『大日蓮』(大正十年三月号)に詳しいので、それに基づいて当日の状況を記す。

大正十年二月十六日の宗祖日蓮大聖人聖誕七百年の当日は、雪まじりの寒風が吹きすさび、膚を刺すような寒さであった。東京・洲崎の埋立地には、立正統一講が招待した東京の日蓮正宗寺院住職、各講頭及び講員が集まった。そのほか、新聞に予告掲載された記事を見て集まった者も多くいた。

以下、『大日蓮』の記事をそのまま紹介する。

「午前十一時半民間飛行者の雄小栗常太郎氏はカーチス式飛行機に大御本尊を掲げ奉りてそれに搭乘し滿場の口唱する御題目の聖音に送られ滑走五分にして離陸し機首を東に向け海上を半周し日本橋より淺草上野を經て全市に霞か雪かと紛ふ五色の宣傳ビラ數十萬枚を空中より撒布し同五十五分引返し正午會場の上空に再ひ機體を現はし悠々二周して唱題と萬歳の聲に迎へられ無事着陸せり」

カーチス式飛行機とは、大正元年十一月におこなわれた海軍観艦式の際、わが国に初めてお目見えした水陸両用の複葉機である。写真を見るかぎりにおいては、風防は認められない。操縦士は飛行帽、ゴーグルを着け、風圧に耐えたものと思われる。

操縦士の小栗常太郎は、『大日蓮』の他の記述からして、どうやら日蓮正宗の信徒ではないように見受けられる。立正統一講は、複葉機と操縦士をチャーターしたようだ。

その複葉機に御本尊様を“奉掲”し、宣伝ビラ「数十万枚」を東京上空より撒いたのである。風防もない飛行機で、御本尊様はどのようなことになっていたのだろうか。

飛行機が離着陸する間隙をぬって、この洲崎の埋立地では、布教講演会がバラックの中でおこなわれた。カーチス機のものめずらしさに集まったヤジ馬に、日蓮大聖人の仏法を説いたのである。

このカーチス式飛行機、当日の午後三時に改めて同埋立地を離陸、空路、富士大石寺に向かったが、風が強く池上上空より引き返した。

富士大石寺では、「滿山の僧侶正装して飛行機の本山上空に飛來するを待ち歡呼の聲を揚」(同『大日蓮』)げようとしたが、先述したように、天候が悪く、飛行機は飛来できなかった。

飛行機での宣伝はそのようなありさまであった。一方、「自動車大宣伝」も並行しておこなわれた。

「自動車十餘臺を疾走せしめ立正統一講の講旗を風に靡かし車中大御本尊を掲げ奉り大太鼓を打ち高聲題目を唱へつゝ東京市中を縦横に宣傳ビラを撒布し毒皷の乱打國民に大警醒を與へたり」

自動車に御本尊様を奉掲し、「大太皷」の音に合わせ大きな声で唱題して、ビラをまきながら東京を走りまわったのであった。

この東京での行事のおよそ一カ月後、三月十五日には、大阪において「聖誕七百年紀念慶典第二回」と称する行事がおこなわれた。

午後二時よりおこなわれた「如法の式」の後、午後五時より「提灯行列示威宣傳の段」がおこなわれた。先頭には「紅高張提灯一對」が花傘をもって飾られ、後ろに「宗旗」「紀念大旗」「大皷」が続いた。その後ろに僧侶が二列縦隊、男性信徒約二百名が三列縦隊、さらに「大旗」「大皷」、女性信徒約二百名全員が「新調鶴丸紋附」で、片手に「紅提灯」、もう一方に富士山と鶴丸を白ヌキにした紫色の小旗を持ち従った。

つまり日蓮正宗僧俗総勢五百名が、太鼓を打ち唱題をしながら大阪の街を行進したのである。「途中兩側は人垣を築いて見物山をなす」と、『大日蓮』は記しているが、行列の光景を想像するに、さもあらんと思われるのである。

この行列は、蓮華寺を出て「中の島東公園」に着いた。さて、ここからの日蓮正宗僧俗の行動であるが、どうにも理解に苦しむのである。

「聖門下聯合『本化聖教團』の大提灯行列に移る」と記されている。さらに、提灯行列に出発する前の様子を、「かくて豫定の七時半單稱の三十六ケ寺本門法華宗十一ケ寺本門宗五ケ寺顕本宗の二ケ寺し都合六十有余ケ寺の法華講中約五千人一時に点燈せると單稱派の万燈点火にて中の島一帶火の海と化す」と描写している。

日蓮正宗は大正元年六月、日蓮宗富士派を改めて日蓮正宗と公称するに至っている。日蓮正宗は明治九年、日蓮系宗派の北山本門寺、京都要法寺、伊豆実成寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、保田妙本寺、西山本門寺らの日興上人門流(興門派)の各派と合同し、日蓮宗興門派を形成した。だが、他の邪義を立てる派と合同していることを諒とせず、離脱し日蓮宗富士派と称した。さらに大正元年には呼称を日蓮正宗と改めた。

「本門宗」とは、日蓮宗興門派八山のうち、大石寺の抜けた後の七山を指す。この七山のうち、下条妙蓮寺、保田妙本寺は現在、日蓮正宗に属しているが、他五山は他宗派のままだ。「本門法華宗」は、日蓮宗八品派が改称したもので、これまた富士大石寺とは教義を異にする。「顕本宗」とは「顕本法華宗」のことと思われる。戦時中に身延派と合同、現在も大部分は身延派である。

大正十年当時の日蓮正宗の僧俗は、教義を異にする宗派である「本門宗」「本門法華宗」「顕本宗」などの人々と一緒に、太鼓を打ち、共に唱題しながら提灯行列をしていたのだ。日蓮正宗は総勢五百名であるから、他のほぼ四千五百名が他宗派であった。

さて、ここまで『大日蓮』に載った大正十年の日蓮大聖人聖誕七百年の模様を紹介したのは、ほかでもない、当時の日蓮正宗の布教方法、組織実態を知ってもらいたいからである。

当時では珍しいカーチス式飛行機をチャーターし、機内に御本尊様を奉掲してビラをまき、演説会を開く。自動車を連ねて御本尊様を奉掲し、太鼓をたたいて唱題しながらビラをまく。

他宗と連合して提灯行列をする。そのときも人夫に太鼓を担がせ、唱題しながら行列行進している。

当日は東京、大阪ともに信徒の動員をかけたものと思われるが、東京は飛行機見たさのヤジ馬を入れて「数千人」、大阪は「五百名」である。

これが大正十年当時の日蓮正宗の実態であった。創価学会の牧口常三郎初代会長、戸田城聖第二代会長が入信したのは、七年後の昭和三年六月頃のことである。

日蓮正宗においては、創価学会が座談会中心の布教方法を確立するまでは、人を集めての講演会や宣伝といった布教方法が広宣流布にとって有効であると考えられていたのだ。

飛行機、自動車での宣伝、提灯行列などを真顔でおこなっている当時の日蓮正宗僧俗を思うにつけ、創価学会のなした広宣流布への歩みの偉大さを知ることができる。創価学会の出現がなければ、日蓮正宗はいまだに、物見遊山の者を相手にむなしい活動を展開していたであろう。

これまでにも明らかになってきたことだが、創価学会出現前の日蓮正宗には、邪宗、謗法に対する峻別の意識がまったく欠落していたのである。

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