報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(32)」おわりに

日顕宗の坊主が立ち会わなければ
在家の者は臨終正念しても成仏しないという

仏法は観念論ではない。権威に裏づけを与えるものでもなければ、詭弁に根拠を与える文言の連なりでもない。仏が大慈大悲をもって民衆を救済せんと、森羅万象の根源の法を説いたものである。その根源の法とは南無妙法蓮華経であり、仏の法そのものである。

ところで、日顕宗の輩も法華経を所依の経典とし、日蓮大聖人の仏法を信受しているという。こう言いながら、日顕のみが「唯授一人血脈相承」の特別な人であり、日顕のみ日蓮大聖人の仏法をよく信受し、つぎによく信受しているのが日顕と同様の出家の格好をしている日顕宗の坊主ということである。これら日顕宗の坊主らの弁によれば、彼らが葬式に出て読経、唱題し、引導文を口ずさまなければ、何十年信仰に励んだ者であっても在家の者は成仏しないということである。

日顕ら一党は、御本仏日蓮大聖人の大慈大悲も智慧も、日顕やそれに追従する坊主らには及ぶが、信徒には直接及ばず、出家の介在なくしては、御本仏の願業である民衆の成仏もおぼつかないとしているのである。かくして、日蓮大聖人の仏法は宗教的特権階級の独占となり、御本仏日蓮大聖人が咀嚼し公開された仏法は、日顕ただ一人有するという秘法の彼方に去り、隠されてしまう。仏法は出家の独占物となり、出家は手品のタネのごとく秘伝とやらを隠匿しているとし、秘法を所持する我らに逆らえば堕地獄だと、ただ出家らは在家を支配するために仏法を悪用する。

日蓮大聖人が仰せになった、

「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(観心本尊抄)

という民衆救済の大慈悲は、法華経を私物化する出家らに死滅させられることになってしまった。釈迦の末流のなかに、仏法を死滅させてしまう禅や真言、念仏らの悪比丘が登場したように、日蓮大聖人の末流にも同類の破仏法者が現出した。彼らにとって仏法は利用すべきものであり、飯のタネであり、贅沢の源泉であり、自己正当化の詭弁の元であり、差別の依拠である。悪党どもは、仏法を口にすれども信受せず、仏の理想を実現するために粉骨砕身せず、ただ仏の名を利用し経文を切り刻み己が煩悩の業火を燃やす薪としている。

真の仏弟子は如是我聞の者である。南無妙法蓮華経を一切法の根源と信受し、よく南無妙法蓮華経を持ち、民衆に御本仏日蓮大聖人の大慈悲を伝え、人々を幸せに導く。仏弟子らは、日蓮大聖人の題目にのみ人を救うことができると会得し、信心の血脈を日蓮大聖人に求め、みずから三世にわたる師弟の道を成ずるのである。

思えば日顕宗の輩は、悪師を師と称し、悪師の衣で御本仏を隠し、師弟の道に楔を打ち込み、師弟を離間しようとする。日顕らは、在家の者が日蓮大聖人と師弟の絆を直接結ぶことはできず、末寺の住職から日顕を経て、さらには代々大石寺貫首を通してしか、御本仏と信徒との師弟の関係はないとする。なんと迂遠なる師弟であろうか。朝夕に御本尊に合掌唱題しても、御本仏日蓮大聖人を間近にできぬとはいかなることであろうか。日顕宗の者らは仏法を信じず、御本仏日蓮大聖人の大慈悲に逆らい、師弟の道を投げ捨てているのである。

創価学会の庭に集う仏子らは、仏の法を如是我聞と信順し、南無妙法蓮華経を生活の根本とし、御本仏日蓮大聖人の弟子として三世を生きる。ひるがえって、修行する仏弟子は、仏法を信じ仏法を説く善師に順ずるべきである。信順離れがたし、仏法を会得する者は師弟の道を成就し、師弟の道を貫く者は仏法の理をよく会するといえる。

御義口伝に云く。

「伝教云く法華経を讃むると雖も還つて法華の心を死すと、死の字に心を留めて之を案ず可し不信の人は如是我聞の聞には非ず法華経の行者は如是の体を聞く人と云う可きなり、爰を以て文句の一に云く『如是とは信順の辞なり信は則ち所聞の理会し順は則ち師資の道成ず』と、所詮日蓮等の類いを以て如是我聞の者と云う可きなり云云」(御義口伝)

創価学会の師弟の絆に仏法が息づくのは、仏の意に適っているからである。

1995年2月

家族友人葬のパイオニア報恩社