報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十七章 師弟してい倶生ぐしょう

単行本「『地涌』からの通信(30)」おわりに

日顕宗によれば御書はすべてではなく
御法門の部分でしかないだと

末法の御本仏日蓮大聖人は、一切衆生の成仏を願って慈悲を硯に流され、魂魄を筆先にとどめられ、数々の御書を著された。日蓮大聖人御入滅後七百年を経た今日、日蓮大聖人を御本仏と慕う数多の仏弟子らが御書を拝することにより、時の隔たりを超え、日蓮大聖人の生命に触れ、迷いを離れ、苦しみを解き、欣喜雀躍する。

第二祖日興上人は「富士一跡門徒存知の事」にも明らかなように、御書をないがしろにする五老僧の所行を破し、「後代の亀鏡」として御書を残されたのである。宗祖日蓮大聖人、日興上人に連なる末弟は、御書をもって信仰の「亀鏡」と拝し、修行すべきであることは、いまさら断るまでもない。

ところが、日顕宗では“宗開両祖を崇め奉り御書を心肝に染める”と口にはするけれども、おこなっているところは、その正反対である。日顕宗では、「(御書は)大聖人の御法門、御指南が一切網羅されたものではありません。言葉を換えれば、大聖人の御法門の部分とも言えましょう」(平成三年八月二十五日、本説寺での大阪布教区副宗務支院長・高野法雄の発言)といった邪まな主張がまかり通っているのである。

いまや日顕ごときも、自身のおこなった謀略を「御仏智」と称し、みずから下す命令を「下種本仏・日蓮大聖人の厳たる御命令」と言いつのるまでに増長している。日顕ら一党は、御書以外に「血脈」があり、“法主”から“法主”にその「相承」がなされているとして、日蓮大聖人の法門を日顕一人の心中に帰し、果ては、その権威をもって「僧」が民衆より上に立つことを正当化しようとしている。

この日顕ら一党の論は、邪義である。この邪義と戦ったが故に、混沌の中に埋もれていた正義が画然と姿を現すこととなった。御書の中にしか、後世に相承すべき信仰の核心がないことが明確となってきたのである。

日蓮大聖人が虚空会で釈尊から相承した、すなわち文底から見れば日蓮大聖人固有の重要法門は、ことごとく御書に納められている。日蓮大聖人は法門を後世に残すため、主要な弟子に重要な御書を託されたのである。日蓮大聖人は託す弟子に対し、「宿縁のをふところ予が弟子となり給う」と仰せになっている。ならば、時を隔てているにもかかわらず、重要法門の認められた御書を間近に拝する弟子の在ることは、なぜだろうか。日蓮大聖人を上首上行と仰ぐ「地涌の菩薩の眷属」であるが故である。

思えば、その弟子たちの勇気と実践によってのみ、日蓮大聖人が生命を削り、後世に残された御書は、実語となる。御書を実語とする者は仏弟子、御書よりほかに「血脈」を求め、御書を虚言とし、仏法を破壊する者は天魔である。

日蓮大聖人は、最蓮房に与えられた「諸法実相抄」の末尾に、こう書かれている。

「日蓮が相承の法門等・前前かき進らせ候き、ことに此の文には大事の事どもしるしてまいらせ候ぞ不思議なる契約なるか、六万恒沙の上首・上行等の四菩薩の変化か、さだめてゆへあらん、総じて日蓮が身に当ての法門わたしまいらせ候ぞ、日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん、南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女を・みちびかんとおもへばなり、経に云く一名上行乃至唱導之師とは説かれ候はぬか、まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給う」(諸法実相抄)

仏弟子たる創価学会の師弟は、御書を実語とするために今生に生を受けたと知るべきであろう。これもまた、宿縁深厚なるが故である。

1994年8月

家族友人葬のパイオニア報恩社