報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十六章 仏勅ぶっちょく顕然けんねん

地涌オリジナル風ロゴ

第890号

発行日:1995年11月9日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

国が法華経の行者を迫害すれば他国に破られ亡国となる
日本敗戦当時の悲惨な現実は厳粛なる仏法の道理を示す
〈仏勅シリーズ・第21回〉

日蓮大聖人曰く。

「是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国・他国にやぶられて亡国となるべきなり」(本尊問答抄)

【通解】このように仏法の正邪が乱れてしまい、王法(政権の福運)もようやく尽きてきたので、結局はこの国は他国に破られて亡国となることであろう。

七月二十六日、アメリカ合衆国、イギリス、中華民国は、日本に対し無条件降伏の勧告をおこなった。いわゆるポツダム宣言であるが、日本の鈴木貫太郎内閣は二十八日にこの宣言を黙殺すると発表した。このため連合国は、日本の無条件降伏を促すため、より大量の殺戮と破壊をおこなった。

八月六日午前八時十五分、広島に原子爆弾が投下された。一瞬の出来事であった。閃光があたり一面を包み、直後、大音響がした。

テニアン基地から「エノラ・ゲイ」と名づけられたB29が運んできた、たった一発の新型爆弾により、広島の街は瓦礫となり、

「広島市総人口約40万人、うち23万ないし27万が即死あるいは5年以内に死んだ」(自由国民社発行『日本史』)

のである。

八日には日本と相互不可侵条約を結んでいたソ連が、突如参戦し、極東ソ連軍は機甲兵団を中心にした百五十万人もの兵力をもって怒濤のようにソ満国境を越え、ほかにも朝鮮、カラフトに進撃してきた。枢軸国敗北後の世界を簒奪するために、大国のエゴイズムをむき出しにしての参戦であった。

当時、満州には約七十万人の関東軍と約百五十万人の民間人がいた。だが、関東軍の精鋭は南方に転用され、装備もままならぬ未訓練の兵が多く、十万人は銃剣すら持っていなかった。その関東軍はソ連が国境を越えるや、開拓民を残し我れ先にと逃げてしまった。

このため、旧・満州(現・中国東北三省)において、約十七万六千人の民間人が異国の地で帰らぬ人となった。またシベリヤには五十七万五千人の武装解除された日本軍が抑留され、苛酷な自然条件下で強制労働させられた。このシベリヤの地では五万五千人が亡くなった。

九日午前十一時二分には、長崎に原爆が投下された。これまた一瞬にして約七万五千人が不帰の人となり、市街は破壊し尽くされた。その後も死者は増えつづけ、数年を経ずして原爆症などで犠牲者約十二万人を数えるに至った。

十日、日本国政府は終に天皇制の維持という条件つきでポツダム宣言の受諾を連合国側に通告。連合国は、天皇および日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官に従属することを通告。

日本政府は十四日、それを受諾。十五日正午、天皇は全国民ならびに全軍隊に「戦争終結の詔書」を伝えた。

敗戦の時点で、日本の軍人、軍属、邦人が海外に約六百二十九万人いた。うち軍人および軍属がその半分を占めた。これらの引き揚げ者は、千島、中国、朝鮮、東南アジアなどから着のみ着のままで日本に帰ってきた。

誤れる宗教である国家神道に日本国民総じてマインドコントロールされ、日本国民は有史以来の苦しみを味わうこととなった。

日蓮大聖人曰く。

「今我が弟子等死したらん人人は仏眼をもて是を見給うらん、命つれなくて生たらん眼に見よ、国主等は他国へ責めわたされ調伏の人人は或は狂死或は他国或は山林にかくるべし、教主釈尊の御使を二度までこうぢをわたし弟子等をろうに入れ或は殺し或は害し或は所国をおひし故に其の科必ず其の国国万民の身に一一にかかるべし」(兵衛志殿御書)

【通解】いま私の弟子のなかで、すでに死んでいる人々は、仏眼をもってこの祈祷の結果を見ておられるだろう。命を長らえて生きている人は、肉眼で見なさい。やがて国主らは捕虜となって他国へ連れ去られ、調伏の祈祷をした僧たちは、あるいは狂い死にし、あるいは他国へ出奔し、あるいは山林に隠れるであろう。教主釈尊の御使い、すなわち末法の法華経の行者・日蓮を二度までも鎌倉の街路を引回し、弟子らをあるいは牢に投じ、あるいは殺し、あるいは痛めつけ、あるいは所を追い出したために、その罪科は必ずその国々の万民の身、一人ひとりに及ぶであろう。

国家神道が招来した不幸は、日本国民に限らなかった。日本は、この侵略戦争においてアジアの人々を大量に殺害した。その数は定かでないが、『国史大辞典』(吉川弘文館発行)によれば、

「軍人の死傷者約4百万人、民間人の死傷者約2千万人、戦火に追われて流亡した者(流離失所者)約1億人とされている」

ということである。

日蓮大聖人曰く。

「仁王経に云く『人仏教を壊らば復た孝子無く六親不和にして天竜も祐けず疾疫悪鬼日に来つて侵害し災怪首尾し連禍縦横し死して地獄・餓鬼・畜生に入らん、若し出て人と為らば兵奴の果報ならん」(立正安国論)

【通解】仁王経にいわく「人が正法を信じないで謗法をおかすならば、家庭の中が乱れて孝行の子がなく、親子、兄弟、夫婦は互いに不和で、天神も守護せず、疾疫、悪鬼が日々に来て、侵害し、災難が絶え間なく起こり、死んでのちは地獄、餓鬼、畜生の三悪道に堕ちるであろう。もし再び人間に生まれてきたときには、兵として奴隷の身となる果報を得るであろう」と。

仏の眼から見れば、アジアの民のみならず世界を襲った不幸の原因はあまりに明らか。

しかしながら、その現実はあまりに悲惨であった。多くの無辜の民が、筆舌に尽くせぬ苦しみの中で死んでいった。しかし、全世界の民衆を救い得る仏法は厳然と息づいていた。

日蓮大聖人の仏法は、獄中において悟達した戸田会長の胸中に、七百年の、いや久遠元初以来の時空を超えて蘇っていたのであった。

日本国民のすべてが、敗戦によりいやしがたい虚脱感に襲われていたとき、出獄後一カ月半しか経ていない戸田会長は、早くも前進を開始した。

八月二十日、大崎(品川区)に日本正学館の仮事務所を開設。戸田会長は、そこに数人の事務員をおいて通信教育事業をはじめた。二十三日付の『朝日新聞』の一面左下には、タテ約六センチメートル、ヨコ約三センチメートルの日本正学館の広告が出ている。広告の文面には、

「中學一年用 二年用 三年用

數學・物象の學び方 考え方 解き方(通信教授)

各學年別に數學物象の教科書主要問題を月二回に解説し月一回の試験問題の添削をなす。又これを綴込めば得難き参考書となる。資材関係にて會員數限定 六ケ月完了 會費各學年共六ケ月分廿五円前納 郵便小為替或は振替にて送金の事 住所學校名學年氏名明記の上即刻申込みあれ(内容見本規則書なし)

東京都品川區上大崎二の九四二

(振替東京壹九九貳五番)
日本正學館」

と書かれている。戸田会長は日本の復興には教育が不可欠だと考え、これからは国民がとみに知識欲旺盛になると見越し、同事業は有望と判断したと思われる。それにしても当時の世情、戸田会長の健康を考えれば、超人的な手の打ち方であったといえる。

戸田会長は一日も早く事業を再建し、広宣流布という聖業の礎とすることを願っていたようだ。

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