報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

二十章 霊山りょうぜん未散みさん

地涌オリジナル風ロゴ

第709号

発行日:1993年11月22日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

仏意仏勅の和合僧団を破壊し仏子を迫害した特高警察官に
仏罰は厳然と現れ仏力法力の空しからざることが証された
〈仏勅シリーズ・第14回〉

昭和十八年、牧口会長や戸田会長らに対する特高・検察の取り調べがおこなわれたが、創価教育学会幹部を取り調べた特高の者たちは、厳しい仏罰をこうむることとなる。

日蓮大聖人曰く。

「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(聖人御難事)

【通解】過去および現在の、末法の法華経の行者を軽蔑したり、賤しんだりする国王や臣や万民は、はじめは何事もないようであるが、必ず最後には滅亡の悲運に堕ちないものはない。

戸田会長は、戦後、昭和三十一年六月二十八日におこなわれた大阪・堺支部婦人部総会において次のように話している。

「私と初代会長の牧口先生をともに調べた特高刑事の一人が、東京の有楽町駅で電車を待っていたとき、ひょいと頭を出して電車にぶつかり、目、鼻、口から血を吐きだし、首が抜けて死にかかった、すごい頭破作七分の姿を、はっきりと私は目の前で見ている」(『戸田城聖全集』第四巻より一部抜粋)

このことは妙悟空著『人間革命』にも記されている。

「秋雨の降つている日曜日であつた。

巌さんを刑事室で遊ばせていた長刑事が、突然、尋ねた。

『頭破作七分ということが、法華経にあるというが、あれは真実かね』

巌さんは若い刑事が法華経にある言葉を持ち出して質問するのを奇異に感じながら、丁寧に答えた。

『真実です。法華経の陀羅尼品にあるんだ。法華経の行者を悩ます者がある時は、鬼子母神などが行者を守護するために、その邪魔をする者の頭を七つに破るという誓いで、頭破れて七分と作らん……と読む。それは心破作七分ともいつて、頭が狂うことも意味する。法華経を信ずる者を虐めた場合に、首から上に起こる病気は、謗法の酬いで真実なんですよ』

『ふん、そうかね』

長刑事が、なにか、探つているような表情になつたので、巌さんは尋ねた。

『あなたは、なぜ、そんなことを尋くんですか』

『じつは、小竹さんが有楽町で怪我をしてね。向こうから電車がきた時、なに気なく頭を出したら、ほんのちよいと当つたのに、頭骸骨がはずれて眼からも鼻からも酷い血が出て、死ぬか生るかの大騒ぎをしたんだ。やつと頭骸骨はもと通りにしたけれど、まだ苦んでいるんだ。こんなこと、誰にもいわんでくれたまえ』

長刑事の暗い顔を凝視していて、巌さんは慄然となつた。

『小竹さん、ぼくには親切だつたけど、ほかの者を虐めたのじやないかしら。現罰といつてね。恐いもんなんだ』」

この「小竹」は本名「宮田」で警視庁特高第二課の者である。おそらく捜査の必要上、入門したと思われるが、牧口会長、戸田会長、藤本蓮城房の折状の親である三谷素啓より日蓮大聖人の仏法を学んでいた。

宮田は、創価教育学会に対する捜査のみならず藤本蓮城房の取り調べも指揮していた。つまり三谷素啓に縁する同門の者が、牧口、戸田会長並びに藤本蓮城房を取り調べ、迫害したのであった。

この宮田について、創価教育学会幹部である夫・神尾武雄氏を逮捕された神尾よ志さんも、『牧口常三郎全集』第五巻に附された『月報3』に懐古談を記している。

「勤行をしている時浮かんだ思いのまま、一人で警視庁特高課へ乗り込み、課長代理の宮田という刑事に、『少しも悪いことをしていないのに、こんな目に合わせて生活をどうしてくれるのですか』

とねじ込み、相手に謝罪させた上に即刻、就職の世話をしてもらったのです。紹介された就職先で、その刑事の親友の支配人を折状、支配人は感服して、すすんで宮田刑事に日蓮正宗、創価教育学会の正しさを話したのでした。

宮田刑事は私を自宅の玄関先に呼びつけ、折伏をやめるように命令したのでした。ところが不思議なことにその一週間後、刑事は有楽町駅で列車に頭をぶっつけ頭の中が割れてしまい、一命だけはとりとめましたが、そのありさまは仏法に説かれている、正法を誹るものは頭破七分になる、との教えどおりでした。

終戦後、宮田刑事は主人に手をついて、

『私が間違っていました』

と謝罪したのでした」(『牧口常三郎全集』第五巻『月報3』より一部抜粋)

日蓮大聖人曰く。

「頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して頂の皮の底にある骨のひびたふるなり、死ぬる時は・わるる事もあり」(種種御振舞御書)

【通解】頭破作七分というのは、または心破作七分ともいって、頭の皮の底にある骨がヒビ割れるのである。死んだ場合には割れることもある。

この宮田以外にも、罰を受けた者がいた。牧口会長が警視庁で差し入れされた安全カミソリを手にしたとき、それを見とがめて牧口会長を平手打ちにした特高刑事の斎木統一である。

この斎木について戸田会長は、昭和二十五年十一月十二日に東京・神田の教育会館でおこなわれた牧口会長の第七回忌法要で、

「しかし、仏の金言むなしからず。わたくしが帰ったとき、斎木のいちばんいとしいと思っていた子どもが、頭から貯水池にはいって死んだのです。ちょうど三年以内です。そのときのわたくしの恐ろしさ。今日、わたくしは初めてこのことを申します」(『戸田城聖全集』第三巻より一部抜粋)

と語っている。同様の話は、昭和三十一年六月二十八日に大阪市中央公会堂でおこなわれた大阪・堺支部婦人部総会における指導の中でも話している。

「身延系の信仰をしていた警官だが、牧口先生になぐるけるの暴行をはたらき、さんざんいじめぬいた男だが、あとになって、その警官の子供がドブに逆さまに落ちて死んでしまったという事件もある」(『戸田城聖全集第四巻』所収より一部抜粋)

この斎木については、妙悟空著の『人間革命』にも、「斎藤」という名で登場している。

「いつも気品を湛えていて閑雅な牧田先生の老夫人と、東京のどこかの警察の留置場にいるはずの稲畠政市の長男の嫁になつている長女とが、慎しやかな姿で斎藤刑事の前へ進み、丁寧に挨拶して、重箱に詰めた弁当を差し出した。

『それから、これは、この間、部長さんのお話で、牧田が髭を剃りたいと申しますそうで、安全剃刀を持つてまいりました。どうか、よろしくお取り計い下さいますようお願いいたします』

二人は斎藤刑事に向つて、幾度も幾度も頭を下げると、正面の机の前から振りかえつている牧田城三郎と顔を見合わせたまま後へ退つた。

そして、はじめて巌さんに気が付いて驚き、まあ! といつて微かに頭を下げて出て行つた。

牧田城三郎はそれを見送ると、椅子を立つて、斎藤刑事の机へ行き、断りもなく安全剃刀を取つた。

わが家で朝夕に使つていた剃刀が懐しく嬉しかつたのであろう。謹厳な顔を綻ばせて、安全剃刀を感慨深げに眺めていると、不意に斎藤刑事の手が伸びて烈しく頬を打つた。

『牧田! 誰の許しを受けて剃刀をいじる! 警察では刃物は厳禁なんだぞ! 万一のことがあつたら、誰の責任になると思う! 年甲斐もなく弁まえのない奴だ』

斎藤刑事の平手が飛んで、牧田城三郎が烈しく頬を打たれるのを見ると、巌さんの怒りは頂点に達し、俄破ッ! と椅子を立つて、斎藤刑事へ飛びかかろうとしたが、二、三歩出たところで強く背後へ引かれたので、見ると、長刑事が着物の袂を掴んでいた。

その時から、法華経の正しい信者である牧田先生に暴力を加えた斎藤刑事に、巌さんは仏罰があるべきだと信じていたが、特高を馘首になつた斎藤刑事がわざわざ訪ねてきて、不良ばかりの子供が三人いるが、その中で、この子ばかりは、今に良くなると頼りに思つていた末の子が、夫婦の知人の結婚式へ出席した留守に、近所の貯水池へ頭を突つ込んで死んだと話したのは、彼の出獄後であつた」

この「斎藤」こと斎木は、取り調べ中に稲葉伊之助に暴行を加え、稲葉は耐えかねて高輪警察署の二階からスキを見て飛び降り自殺をはかろうとしたこともある。

獄中にあった法華経の行者を迫害したこの者たちに、厳罰が出たのである。だが、それにしても創価教育学会の受けた打撃は大きかった。

「投獄せられた者どもも、あわれであった。事業のつぶれる者、借金取りにせめられる者、収入の道なく食えなくなる者等続出して、あとに残った家族も、悲嘆にくれたのである。このゆえに、まず家族が退転しだした。疑いだした。これは確信なく、教学に暗いゆえであった。投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人を御本仏と知らぬ悲しさである。

名誉のある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、二十一名のうち十九名まで退転したのである」(『戸田城聖全集』第三巻所収「創価学会の歴史と確信」より一部抜粋)

日蓮大聖人曰く。

「此の法門につきし人あまた候いしかども・をほやけわたくしの大難・度度重なり候いしかば一年・二年こそつき候いしが後後には皆或はをち或はかへり矢をいる、或は身をちねども心をち或は心は・をちねども身はをちぬ」(四条金吾殿御返事)

【通解】この法門を信心した人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年二年はついてきたが、後々にはみな、ある人は退転し、ある人は反逆して法華経に敵対してしまった。また、ある人は身は退転していないようだが、心の中ではすでに疑いをいだき、あるいは信仰の心だけあっても、身は退転してしまっている。

この捜査を指揮した特高二課長の警部(のち警視)木下英二は、戦後、創価学会に入会し、懺悔の一文を書いている。その文は、『富士宗学要集』(第九巻)の「法難編」に収録されている。

「昭和二十一年五月所謂G号該当で追放を受け、退職する迄で二十五年間の大半を特高警察に捧げて来た私が数ある事件の中で最も慚愧に堪へないことは創価学会事件であることをつくづく*悟らされた。

史上にも曾て経験したことのない敗戦を味ひ追放から失業、そして生活に総ゆる苦難の十年間は全く虚脱状態に陥つて自分の将来には再度起つ機会は到底来らずと幾度か観念させられたか知らないが、奇しくも亦創価学会の戸田先生に救われるとは予想だにし得なかつた事であつた。当時は唯創価学会の峻厳なる折伏運動が、他を顧みない我田引水の唯我独尊の行動としかとれなかつたのであるが、斯る考え方が全く間違であつたことである=大謗法罪を犯したことになる」(『富士宗学要集』第九巻より一部抜粋)

特高刑事たちも、牧口、戸田会長らを取り調べる中で、法華経に縁をし、ある者は罰の姿をさらし、ある者は懺悔改悛の情を示して真の勝者を際立たせる役割を演じたのであった。

日蓮大聖人曰く。

「とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(法華初心成仏抄)

【通解】とにもかくにも、法華経を強いて説き聞かせるべきである。信ずる人は仏になり、謗る者は毒鼓の縁となって仏になるのである。どちらにしても、仏の種は法華経よりほかにはないのである。

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