報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十章 父子ふし暗証あんしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第357号

発行日:1991年12月23日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

昭和四年に僧俗代表護法会議設立案が宗会に提出されたが
早瀬慈雄、櫻井仁道(日顕の師僧)らの抵抗で水泡に帰した
 〈法難シリーズ・第42回〉

昭和四年当時の宗門では、信徒を宗政に参加させようとの動きがあった。昭和四年三月二十五日に開会された日蓮正宗第十七宗会に「建議請願」が出されたが、内容は「僧俗代表護法会議開催の件」となっていた。その「建議請願」の理由としては、

「日蓮正宗が僧俗一致を掲げながらも、実際の宗門の制度は僧侶の特権を基盤としている。現在の宗門の騒ぎはここに根本原因がある。時勢の進み方を見ればこのような少数特権階級者が宗門を支配することを許すべきではない。全信徒の総意を反映させる機関を作るべきだ。この見地から『僧俗代表会議』の開催が急務である」(趣旨)

としている。昭和四年の『大日蓮』四月号に、その「建議請願」の原文が掲載されている。以下に、その原文のすべてを紹介する。

      建議請願

一、僧俗代表護法会議開催ノ件

理  由

本宗ノ信仰ハ僧俗一途ニシテ又独一本門ノ真髄ナリト信ス然ルニ現今宗門ノ諸制度ハ只僧侶ノミノ特権ニ據テ制定セラレタルモノニシテ宗門今日ノ粉擾ハ茲ニ胚胎セルモノト思考ス時勢ノ進運ハ決シテ斯ル少数特権階級者ノミニ依テ支配サルヘキヲ許サス宜シク全信徒ノ総意ヲ円満ナル機関ニヨリテ相射セサルヘカラス我等ハコノ見地ニ據テ宗門ノ現在ニ鑑ミ将来ヲ案シ僧俗代表会議ノ開催ヲ急務ト信シ是ヲ宗内僧俗有志代表者ニ諮リタルニ別紙添付ノ如キ多数ノ賛成ヲ得タリ依テ宗門ハ急速ニ同会議ノ開催ヲ計画スヘキモノト信ス

右建議候也

昭和四年三月廿六日

日蓮正宗革正団代表 櫻井 貫一

日蓮正宗宗会議長 下山廣健殿

右建議請願ハ為宗必要ト認メ之ヲ採択シ提出候也

 昭和四年三月廿六日

宗会議員 福重 照平

同    井上 慈善

同    松本 諦雄

同    下山 廣健

同    下山 廣琳

日蓮正宗宗会議長 下山廣健殿

僧俗一致なのだから、信徒も宗政に参加させよとの建議はもっともなことである。この原文を読むと今日のことではないかとすら思える。しかし、昭和四年当時は、信徒を宗門運営に参加させよとの請願に宗会議員五名が連署したのだから、今日よりも民主的であったともいえよう。

現在の日蓮正宗僧侶が口では僧俗一致を言いながら、その実、信徒の盲目的な隷属を強いているのとは大きな開きがある。このような試みが日蓮正宗の運営上に実現していたならば、今日のような紛糾は避けられたのではないかとも思えるのである。

しかし、この「建議請願」の案は、第十七宗会において採決に入ることができずに廃案となった。同案の採決に入る寸前に、宗務総監代理および宗会議員三名が退場して、結局、宗会は流会になってしまった。このとき(三月二十七日)の模様を『大日蓮』(昭和四年四月号)は、「雑報」に次のように書いている。

「議長取合はず遂に採決に進まんとせし折柄、番外富田臨時総監代理立て宗務院は之を議題とするに反対なりとて退場、早瀬、櫻井、相馬各議員議事続行に反対なる旨を告げて退場するに及び、議長休憩を命ず」

翌日の二十八日については、

「午前九時振鈴、出席議員井上両下山福重松本にて定員を欠く上宗務職員も出席せず、依て議長以下退出す。午後再び振鈴、午前同様にて開会するに至らず」

最終日の二十九日は、

「会期の最終なり。登院者なく遂に流会す」

となった。この宗会を、宗務当局およびそれに追随する宗会議員たちが流会にしたい理由は、次のようなものであった。

一つは、昭和三年七月に予定されていた教学研鑚を目的とした「学生講習会」を、総本山第六十世阿部日開が指図し、突然、中止にしたことに対し、反阿部派が追及の姿勢をとっていたことを挙げることができる。

もう一つは、佐藤慈豊(総本山内)が編纂した『日蓮大聖人御書新集』が、総本山大石寺第五十六世日応上人の校閲を受けておりながら、御聖訓を「改竄シタル形跡歴然タリ」(宗会議員・福重照平質問案より)と問題にしようとしていたことである。

最後の一つは、これもまた重大な事件についての質問が用意されていた。宗会議員・福重照平の質問案には、次のように記述されている。

「御宝物ノ取扱ハ最モ厳正ニ為ササルヘカラサルハ論ヲマタス然ルニ去ル二月廿三日他宗僧侶ノ請ヲ容レ旦徒惣代ノ立会ハザルニ之ヲ開封シ一週間以上放置シタルハ如何ナル理由ニヨルヤ」

これもまた、宗務当局の言い逃れのできないことであった。

「御宝物」は、御宝蔵の中に保管されていた。御宝蔵内には戒壇の大御本尊様も奉安されている。宝物をむやみに表に運び出したとは考えにくいので、御宝蔵の中へ邪宗の僧侶が立ち入り、宝物を閲したと思われる。宝物の多くは宗祖日蓮大聖人ゆかりの物、あるいは代々法主由縁の物と思われる。それを戒壇の大御本尊様の間近で邪宗の僧に見せたのだ。なお邪宗の宗派は不明である。

宗会議員の福重らは、このことについて阿部日開派が牛耳る宗務当局を問い糾そうとしていたのだ。これらの重大問題が後に控えていたこともあり、「僧俗代表護法会議」設立の案は廃案にされ、宗会は流会にされたのであった。

信徒の意見を宗政に反映させようとの画期的な案であっただけに、廃案にされたことは実に残念である。このとき、同案の不成立を策し、宗会を流会にするために動いた早瀬、櫻井、相馬の三名の宗会議員とは、早瀬慈雄(当時・法道院主管)、櫻井仁道(当時・常在寺住職)、相馬文覺(当時・宗務院詰め)のことである。

早瀬慈雄は、現在、日蓮正宗重役・早瀬日慈の父である。早瀬日慈の長男は、宗務院庶務部長・早瀬義寛、次男は宗会議長・早瀬義雄、四男は宗会議員・早瀬義純となっており、四男・早瀬義純の妻は、日顕の長女・百合子。

早瀬閥は日蓮正宗内最大の閥であり、日顕の強引な宗内支配の背景には、早瀬閥と親族関係になり得たことがある。現在、阿部派と早瀬派が合同して、日蓮正宗を牛耳っているのだ。

なお、前出の宗会議員の三名のうちの一人、櫻井仁道は日顕の師僧である。

昭和四年、「僧俗代表護法会議」が挫折した経緯を見ていると、今日、早瀬系と阿部系の二大派閥が、信徒団体である創価学会を解体し、僧侶による完全な信徒支配を目論んで「C作戦」を推し進めていることは、故なきことではないと思えてくる。

さらには、昭和二十七年、戸田城聖創価学会第二代会長が、創価学会を宗教法人にしようとしたときに、宗門側で大反対をしたのは、阿部日顕と早瀬日慈であったことが伝えられている。

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