報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

十章 父子ふし暗証あんしょう

地涌オリジナル風ロゴ

第339号

発行日:1991年12月5日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

本尊書写、血脈を猊座神秘主義と結びつけてはならない
本尊流布は大聖人の御遺志であり血脈は信徒たちのものだ

去る十一月三十日、総本山大石寺でおこなわれた日蓮正宗全国教師指導会において、日顕一派は創価学会員に対する御本尊の新規下附、再下附、分世帯下附を停止した。

御本尊を下附しないことにより、創価学会員を動揺させ、創価学会組織を切り崩そうとしているのだ。実に悪質な、聖職者として最低、最悪の暴挙である。

日顕は、御本尊流布という宗開両祖の御遺命を本来、先頭に立って推し進めるべき立場にありながら、悪鬼入其身の姿を現じ、それを妨害している。広宣流布の途上、これだけの障魔が出来したことはない。

戸田城聖創価学会第二代会長は、日興上人が御本尊流布についてどれだけの大情熱を傾けておられたかについて、御筆止御本尊に触れながら話されている。

「日蓮大聖人様は、本尊流布ということをお考えになっていらっしゃった。だが、時機の問題で実行できかねておられたのです。そうしたところが、その後を継いだ興師様が、この御開山様が、ご遺志をついで御本尊様をぜんぶの者におわたしになった。ですから私は泣けてたまらないことがあるのです。

いまから三年前か五年前か忘れましたけれども、お虫払い法要の時に、御開山日興上人の御直筆の御本尊をぜんぶ見せてくださるが、そのなかに御筆止御本尊という御本尊様があります。もったいないけれども、その御本尊様のお文字が細く、枯れてしまっているのです。そこまで生命を打ち込んで御本尊様をお顕しになったのです」(「質問会」『戸田城聖全集』第二巻所収)

同じく戸田会長は、次のようにも話されている。

「ところが、御筆止御本尊というのがあるのです。それで、今度、お会式があるそうですけれども、そのときに、拝んだらいいと思いますが、私はそれを見たときに泣けました。なぜかというと、お筆が枯れて、弱っています。御本尊様が、ひじょうに枯れたお手でありまして、お筆の力が弱っているのです。それを御筆止御本尊と申し上げるのです。そうすると、この御本尊(筆者注 客殿の御本尊)を拝みますと、力いっぱいおしたためなのですが、御筆止御本尊は弱っていらっしゃるのです。そのお年まで御本尊様書写に、ご苦労あそばされた御開山日興上人様を思いますと、泣けます」(同)

日興上人が御本尊流布のために、渾身の力を振り絞られて、余命いくばくもないときにあっても御本尊書写されていたことが非常によくわかる。

宗祖日蓮大聖人の仰せに曰く。

「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり」(日女御前御返事)

【通解】ここに日蓮はどういう不思議であろうか、正法時代の竜樹、天親等、像法時代の天台、妙楽でさえ、顕すことのなかった大曼荼羅を、末法に入って二百余年を経たこのときに、初めて法華弘通の旗印として顕したのである。

 

日蓮大聖人は、御本尊が「法華弘通のはたじるし」であると仰せになっている。だが、日顕は、広宣流布を主体的に進めてきた創価学会員に本尊を下附しないというのだ。もちろんこれは、新しく創価学会員となった新入信者に対しても同じである。

創価学会員に本尊下附しないということは、法華講や直属信徒の折伏など微々たるものだから、本尊流布を全体的に停止するに等しい行為だ。宗開両祖の御本尊流布への御遺志を踏みにじる日顕の罪は、実に重いものであると言わねばならない。御本仏のお怒りを恐れぬ所業である。今回の処置は、日顕みずから「法華弘通のはたじるし」を放棄してしまったに等しい。

日顕は、御本尊書写、下附の権限がなんのために与えられているかをよくよく考えてみることだ。民衆救済のために御本尊書写、下附の権限が与えられているのである。その本義をわきまえないで、この権限を、信徒を己に隷属させるために乱用するとはいかなることであろうか。

今日にあっては、御本尊書写がことさらタブー視され、それについて話すだけでも罰があたるのではないかといった恐れをともなって認識されているようだが、かつては、末寺の住職も御本尊を書写していたのである。

末寺住職の書写した御本尊は、いちおう仮御本尊などと呼ばれているが、旧信徒の中には何代にもわたりその御本尊を護持している者もいる。また、末寺住職の書写した板曼荼羅もある。

交通不便な江戸時代などにあっては、当代法主書写の御本尊を下附していただくことは至難のことだった。また、下附してもらうためにはある程度の信心、財力も必要だったようだ。

本尊流布を進めることは、宗開両祖の意に適ったことである。したがって、末寺住職は宗開両祖の御遺志を継ぎ、御本尊の書写、下附をおこなったのだ。末寺住職には、宗開両祖の御遺志を継いで大変よいことをしているという晴れがましい気持ちはあっても、変な恐れやおののきはなかっただろう。法主一人に書写の権限が絞られたのは、印刷技術が進歩し交通事情がよくなった近代に入ってからのことである。

もともと、一切が手書きだった御本尊書写も、印刷技術の進歩により大量に印刷することができるようになった。法主の手書きの書写にこだわっていれば、世界広布などはおぼつかない。宗開両祖の理想実現のために、時代相応の書写(印刷)方法がとられてきたのだ。御本尊書写は和合僧団の決まりごとに基づきおこなえばよいことなのである。

日蓮大聖人や日興上人の顕された御本尊であっても、身延派などの他門流にある御本尊は功徳がない。しかし、その御本尊を護持している寺が、身延派から日蓮正宗に帰伏すれば、その御本尊様は功徳無量となる(保田妙本寺、讃岐本門寺など)。

これは、どのようなことを意味しているのだろうか。要は、御本尊を拝む側の大衆が、日蓮大聖人の教えどおりの信心をしているかどうかが最重要なことなのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」(日女御前御返事)

【通解】この御本尊もただ信心の二字に収まっているのである。「信を以て入ることを得たり」とあるのは、このことである。

 

したがって、身延派は日蓮大聖人の法義に逆らっているから、日蓮大聖人御図顕の御本尊であっても功徳がないのだ。邪義をおこなっているから血脈、法水が枯渇したのである。

総本山第九世日有上人は「化儀抄」において、

「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動せざれば其筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違へざる時は我等が色心妙法蓮花経の色心なり、此信心が違ふ時は我等が色心凡夫なり、凡夫になるが故に即身成仏の血脈なるべからず」(「有師化儀抄」『富士宗学要集』第一巻所収)

と御指南されている。

日有上人みずから「我等」と述べられ、法主であれ「信心の違ふ時」は「即身成仏の血脈なるべからず」と明言されている。この日有上人の「化儀抄」を総本山第五十九世日亨上人は、次のように註解されている。

「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり、信心は信行者にあり・此信心に依りて御本仏より法水を受く、其法水の本仏より信者に通ふ有様は・人体に血液の循環する如きものなるに依りて・信心に依りて法水を伝通する所を血脈相承と云ふが故に・信心は永劫にも動揺すべきものにあらず・撹乱すべきものにあらず、若し信が動けば其法水は絶えて来ることなし、爰に強いて絶えずと云はゞ其は濁りたる乱れたる血脈法水なれば・猶仏法断絶なり、信心の動かざる所には・幾世を経とも正しき血脈系統を有し仏法の血液活溌に運行す、其は世間にて云へば子は親の心に違はす祖先の定めたる家憲を乱さぬが・其家の血統正しきが如く・仏法には師匠の意中に違はぬが血脈の正しき法水の清らかなるものなり、仏法の大師匠たる高祖日蓮大聖開山日興上人已来の信心を少しも踏み違へぬ時、末徒たる我等の俗悪不浄の心も・真善清浄の妙法蓮華経の色心となるなり此色心の転換も只偏に淳信篤行の要訣にあり、若し此の要訣を遵奉せずして・不善不浄の邪信迷信となりて仏意に違ふ時は・法水の通路徒らに壅塞せられて我等元の儘の粗凡夫の色心なれば・即身成仏の血脈を承くべき資格消滅せり、悲しむべき事どもなり」(同)

日顕が血脈相承を受けた法主であっても、邪義をおこなえば法水は枯渇する。だが、たとえ日顕書写の御本尊であれ、祈る人が日蓮大聖人の正法正義を掲げ、純真な信心をしているならば、法水は滔々と流れきたる。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者は・千仏の手を授け給はん事・譬えばうり*夕顔の手を出すが如くと思し食せ、過去に法華経の結縁強盛なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑い有るべからず、過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり、謗法不信の者は『即断一切世間仏種』とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり。

総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(生死一大事血脈抄)

【通解】いま日蓮の弟子檀那など南無妙法蓮華経と唱える者に、千仏が御手を授けて迎えてくださるさまは、たとえば瓜や夕顔のツタが幾重にもからんで伸びるようなものであると思われるがよい。過去世において強盛に法華経に結縁していたので今生においてこの経にあうことができたのである。未来世において仏果を成就することは疑いない。過去、現在、未来と三世の生死において法華経から離れないことを法華経の血脈相承というのである。謗法不信の者は譬喩品に「即ち一切世間の仏種を断ぜん」と説かれて、成仏すべき仏種を断絶するがゆえに、生死一大事の血脈はないのである。
 総じて日蓮の弟子檀那などが、自分と他人、彼とこれの隔てなく、水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱え奉るところを生死一大事の血脈というのである。

 

血脈相承は、「今日蓮が弟子檀那等・南無妙法蓮華経と唱えん程の者」すべての人に該当することなのである。なにも日顕だけのことではないのだ。

「日蓮が弟子」であるはずの日顕にしても、禅寺に先祖代々の墓を建立し、「現代における大聖人様」「大御本尊と不二の尊体」などと呼ばせ悦に入っていれば、三宝破壊の「謗法不信の者」ということになり、「生死一大事の血脈之無きなり」ということになる。

日顕一派はいちおう僧形をなしているが、その内実はといえば妻帯肉食し、利養に貪著するといった、まったく僧とはいえない。と同様に、日顕は、外見は血脈を受けた法主ということになっているけれども、「生死一大事の血脈之無きなり」ということになる。法水が枯渇しているのである。

なお念を押すが、これは日達上人から日顕に血脈相承(宗制宗規上の次期法主の指名)がなかったとする、正信会の主張と同次元の事実の有無を問題にしているのではない。本紙が述べているのは、信仰の本義に関わる「生死一大事血脈抄」に仰せの「血脈相承」についてである。血脈を後継法主指名に矮小化してはならない。

「日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して」とは、謗法不信にして破仏法の輩である日顕一派と「詐親」し、偽りの「和合」をすることではない。破邪なくして顕正はないのだ。

日顕らは日蓮大聖人の大慈大悲に背を向け、「血脈」を私物化し、信徒を隷属させる言葉として使おうとしている。戒壇の大御本尊様が、民衆のために御図顕されたのと同様に、血脈もまた信仰している大衆のものである。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめんとするに・還つて日蓮を種種の難に合せ結句此の島まで流罪す、而るに貴辺・日蓮に随順し又難に値い給う事・心中思い遣られて痛しく候ぞ」(生死一大事血脈抄)

【通解】日蓮は日本国の一切衆生に法華経を信じさせ、仏になるべき血脈を継がせようとしているのに、かえって日蓮を種々の難に値わせ、挙げ句の果てにこの佐渡まで流罪した。そうした中であなたは日蓮に随順され、また法華経のゆえに難にあわれており、その心中が思いやられて心を痛めている。

 

宗祖日蓮大聖人は、一切衆生へ仏になる血脈を継がせようと願われていた。その宗祖日蓮大聖人の御遺志を寸分違わず実践に移し、本尊流布をおこなってきたのは創価学会である。

しかし、本来は信仰している大衆のものであるべきその血脈という言葉が、いつのまにか貫首を神秘主義のベールに包むためにのみ使われるようになってしまった。僧侶たちの共同利益のために教義の矮曲、形骸化が進められたのである。

日蓮大聖人は、次のようにも仰せになっている。

「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」(同)

【通解】心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念なさるがよい。生死一大事の血脈を、このことのほかに求めてはならない。

 

日蓮大聖人の真正の弟子たらんとする創価学会員は、一人としてもれることなく日蓮大聖人の血脈を継ぐ大信力を出すべきときである。

家族友人葬のパイオニア報恩社