報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

九章 破門はもん空言くうげん

地涌オリジナル風ロゴ

第335号

発行日:1991年12月1日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

日顕は裁判を恐れて今日まで策略ばかり弄してきたのに
末寺住職を盾にできるとみたら裁判なんか怖くないと言う

十一月二十八日、日顕一派は創価学会に対して、「創価学会破門通告書」を出したが、その経過説明と今後の対処方法を説明するために、急きょ全国教師指導会を開いた。同指導会は、総本山大石寺大書院において、十一月三十日午後二時から四時二十分まで開かれた。参加者はおよそ六百人余であった。

同指導会の式次第は、(1)日顕の話(2)「創価学会破門通告書」を原田輝道が読み上げる(3)総監・藤本日潤の話(4)庶務部長・早瀬義寛による今後の創価学会への対処方針発表(5)質疑応答十三名(6)再び日顕の話──の順だった。

式次第にそって全国教師指導会の内容を紹介したい。まず、冒頭の日顕の話から。

「正法広布の根底をなす基盤のために非常に不思議な年であるということを感ずるのであります。そのことが、日興上人様の七百年前における、あの波木井の謗法に対する、大功績のあった、大聖人様の仏法の三大秘法の具現という大仏法の深い意義が、波木井実長の外護によっておこなわれたということは、二百カ寺、三百カ寺の寺院を作るよりも、なお根源的な意味において、大きな功績であります。その功績があるにもかかわらず、やはり仏法の謗法、正法の峻別のためには、日興上人が断固として身延を離山遊ばされておる。それからちょうど七百年、そして開創七百年が昨年であり、本年が七百一年の出発の年である、ということを深く考えますると、本当に仏法のあり方、歩みの不思議さを感ずる次第であります」(一部抜粋)

やや論旨不明だが、日顕はあいも変わらず波木井実長の「大功績」を強調している。波木井に「大功績」はないと本紙『地涌』がいくら指摘しても、日顕は己義を構え、絶対に直さない。波木井に「大功績」のないことは、本紙『地涌』(第224号~第227号)で詳述している。

そこまで完膚なきまで日顕の邪義を破折しているのに、まだ執拗に繰り返す。日顕の老化は、相当に進行しているようだ。ボケ対策に、指先を使うことを日常生活の中で心がけたほうがよい。

ところで、日興上人が身延離山されたのは、波木井の謗法の故である。日顕は創価学会を「破門」にしたことを、日興上人が波木井と訣別されたこととダブらせているが、勘違いしては困る。

日興上人は、謗法など犯されていない。謗法を犯したのは波木井である。そうであるならば、禅寺に先祖代々の墓を建立した日顕が波木井ということになる。

それだけではない。日顕は身内の僧侶が犯した謗法も看過している。岸本恭済(群馬・法勤寺住職)が祭りの山車に寄付をしていても、それを責めず、あろうことか去る十月五日付で「僧都」に僧階を上げている。

小川只道(大石寺塔中・理境坊住職)が、未入信の人たちを正本堂や大客殿に案内し、そのうえ供養まで受けているのに黙過している。同じく小川は、道祖神に向かって法要もしていた。それでも、お咎めなし。

関慈英(北海道・得成寺住職)は、馬頭観音の碑の前で法要をしていた。そのほか、全国の僧侶が犯した謗法は、それこそ枚挙にいとまがない。

そもそも、大石寺それ自体が謗法に犯されているのだ。謗法払いもせず、勤行もしていないような者が、大石寺塔中寺院の総代をしているではないか。それだけではない。大石寺のお膝もとでは、歴代法主の板本尊が金刀毘羅神社などの中に祀られていたりしている。

日顕は、波木井の「大功績」と謗法を強調し、創価学会「破門」の暴挙を正当づけようとしているが、正しい日興上人のほうが、閻浮提広宣流布を期して謗法の山から離れられたという身延離山の正当な史実を忘れないことだ。

正法正義の開祖が離山をし、謗法者が残ったのである。今回、仏子らが願わずして離山することとなったのは、狂える日顕らの与同罪をこうむらないようにとの御本仏の御計らいであろうか。

そのほか、日顕の話で目ぼしいものはない。日顕は、「今回、十一月二十八日に自然の形の中で創価学会に対する破門通告がおこなわれたということも、これは自然の姿が、妙法の現れとして存するものと思うのでございます」とも話している。

日顕は、大仰なことを言っているが、その前の発言から推測すると、「二十八日」が立宗宣言の四月「二十八日」と同じだと言っているだけのことなのだ。昆布を食べて喜ぶゲンかつぎと大差ない。もう少し、ましなことは言えないのだろうか。

「創価学会破門通告書」の紹介のあとで、総監の藤本日潤が話をした。藤本は、創価学会の「破門」は「恒久的処置」であることをしきりに強調。これは、将来の創価学会との修復を予想し、さまざまな思惑を宗内僧侶が持つことを阻もうとしたものだ。

なんとか檀徒づくりを目指し、一丸となって僧侶たちを創価学会に当たらせようとしているのである。と同時に、それを強調することによって、創価学会員の動揺を誘おうとしている。

つまり、この総監の発言は、「恒久的」などという言葉とは裏腹に、先行きの見通しから発せられたものではなく、宗内僧俗を精神的に操作しようとする当面の必要性から生じたものである。

現在、全国の末寺を見渡してみても、自活できるだけの檀徒をかかえているところはほとんどない。創価学会員が生活を支えなければ、寺院はやっていけないのだ。だが、これからは創価学会員に生活を保障してもらうことはできない。だからといって、こうすれば檀徒づくりが間違いなくできるという方法もない。

日顕らは、このままでは自分たちが追い詰められてしまうとあせり、「創価学会解散勧告書」「創価学会破門通告書」など、法的に意味をなさない「宣言」を連発しているだけのことだ。見通しがないから、創価学会員をいじめることだけを考えている。いじめて困らせれば、創価学会員が寺に額いてくると思っているのである。

日顕一派に、これから先の明確なプログラムなどは一切ない。「C作戦」は、すでに最終段階に達している。策は尽きたのだ。

展望のまったくない日顕一派の総監が、「創価学会破門」は「恒久的処置」だと力説したところでなんの意味があろうか。総監は、自分の明日だってわかってはいない。

自分の母親の臨終にあたって唱題することもせず、不信心の故に無明のただ中を彷徨する藤本が、どうして「恒久的」などといった言葉を使って未来を確定できようか。

仏子らは、暗愚の僧である藤本の弁より、日蓮大聖人の大慈悲を信じるべきだ。仏意計りがたし。

「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき」(大悪大善御書)

【通解】大事の起こる前には小さな瑞相はない。大悪が起これば必ず大善が来る。すでに大謗法が国に充満しているのであるから、大正法は必ず弘まるであろう。おのおのは何を嘆くことがあろうか。

 

宗祖の御金言、空しからず。いよいよ、これからは世界広宣流布の本格的幕開けである。戒壇の大御本尊様まします故に、仏意仏勅の創価学会が出現したのである。どうして末世の悪比丘たちが、壮大な御本仏の御慈悲を阻むことができようか。

全国教師指導会では、総監・藤本に続いて、庶務部長の早瀬義寛が話をした。早瀬は、法廷に引き出されないように、全国の教師にこまごまとした注意を与えている。その諸注意の前提として、今回の「破門通告」の性格を述べている。

「この破門により、宗門は創価学会を認めないことになるが、個々の会員の日蓮正宗信徒としての資格は残る。それは個々の創価学会員が、寺院で受けた御授戒、御本尊下附は、創価学会員としてではなく、日蓮正宗信徒として受けたものだからである。これが、まず基本的な要点でございます」

創価学会員の信仰活動を侵害すれば訴訟沙汰となるので、創価学会員の基本的な信仰上の権利を侵さないように留意するよう述べているのだ。登山や戒名願い、塔婆願い、葬儀などは、創価学会員であっても、日蓮正宗信徒の申し込みであると解釈し応じろと述べている。

そして、創価学会側が裁判に訴え出ることを警戒して、

「相手は今後はなにかあれば、必ず法的手段に訴えてくることが予想されております。現に各地方の寺院においては誠にもって言いがかりと言うべき、全く根拠なき理由によって訴訟が起こされているのが現状であります。だからといって、我々は、決して臆病であってはならないし、怖がることもありません」

と強調している。裁判をなによりも怖がっているのは、日顕ら日蓮正宗中枢である。その者が、他人に対しては「怖がることはありません」と、無責任な発言をしているのだ。

この全国教師指導会の結びとして、日顕が再び話をした。その一部を紹介する。

「これからはいろいろな面で、特にこの学会員の何百万という人の層の中には、いろんな人がおります。いろんなことを言ってくるでしょうし、その挑発的な言辞も非常に多いと思うんです。そういうことに是非、引っかからないように。

で、一番、ケジメはさっき、庶務部長の指導の中にあった、あのー、あれですね。私はもう日蓮正宗の信心やめると、こういうことを申し出てくるとか、あるいは、そういうふうなことをお寺に言ってきた者に対しては、きちんと、『あっ、それならばどうぞ、その、御本尊をお返しください。あなたがそうおっしゃるなら離檀届をきちんと書いて出しなさい』いうことも、これも冷静に、えー、きちんと、向こうが変な言い方をしてくるでしょうが、こちらはあくまで、えー、冷静に沈着にですね、まあ慈悲の気持ちを、フ、フ、フ、忘れずに、このよく対応すると」

日顕の言っていることは、シレッとした態度で意地悪をしろと言っているのだ。御本尊を返せと言えと指示している。創価学会の個人指導で、このような言辞がなされたことがあるだろうか。

御本尊をなんとか持たせ、信心をまっとうさせようと真剣に唱題し、懇切丁寧に話すことはあっても、御本尊返却を「冷静に沈着に」言えなどという指導が、創価学会の中で一度として語られたことがあっただろうか。この一事をもってしても、日顕が天魔以外のなにものでもないことがわかるのである。

それも「慈悲の気持ちを忘れず」などと、軽口までたたいているのだ。一人の人間を入信させ、生涯にわたり御本尊を持たせるという、日蓮大聖人が最大にお喜びになる折伏行をあざ笑っているのが日顕である。

もし、日顕が慈悲を規範に法を説くのであれば、あくまで御本尊を護持するよう教導せよと指示すべきだろう。それを「冷静」に「沈着」に「御本尊返却」を言えとは、日顕の心の中には、衆生を教化しようなどといった気持ちはさらさらない。あるのは、創価学会に対する瞋恚の気持ちだけである。

日顕は、自分が御本尊書写をする立場にあることを、どのようにわきまえているのだろうか。

日蓮大聖人が御本尊を顕されたのは、大慈大悲をもって一人ひとりの衆生を救わんがためである。四条金吾の娘が病気になったことを心配された日蓮大聖人は、「経王殿御返事」で次のように仰せになっている。

「夫について経王御前の事・二六時中に日月天に祈り申し候、(中略)日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く『師子奮迅之力』とは是なり、又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」(経王殿御返事)

【通解】お便りにあった経王御前のことは、昼夜に日月天に祈っております。(中略)日蓮が守護の御本尊を認めるのも師子王の劣らぬ姿勢によってあらわしたのである。法華経涌出品に「師子奮迅の力」とあるのはこれである。また、この御本尊をよくよく信じなさい。南無妙法蓮華経は師子吼のようなものである。どのような病が障りをなすことができようか。

 

さらに、「経王御前には・わざはひも転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」と激励されている。

このように宗祖日蓮大聖人は、末法の衆生を幸せにするために、御本尊を御図顕あそばされたのである。したがって、御本尊書写をする立場にある日顕は、日蓮大聖人の大慈大悲のお心を体して御本尊を書写し、御本尊を流布すべきである。

御本尊返却を「冷静」に「沈着」に言える男など、もはや法主を名乗る資格はない。日顕の本質は、日蓮大聖人の大慈大悲を空しくしようとする天魔そのものである。

また日顕は、全国の教師たちに対し、創価学会員の「挑発」に乗り、裁判に引き出されることのないよう、異常なまでの気遣いをして注意を促している。

「仏法の本義、大義から言って、あなたの考えは間違っております。言うことは言ってはいいでしょう。しかし、まあ、必ずそういうこと言わなくてもいいかもしれんし、ある程度は聞き流す必要も、必要じゃない、聞き流すこともいいとも思うんですね。

とにかく、まぁ、いろんな形でほかにもあり、考えられますが、そりゃ、挑発があると思いますけども、そういったことには一切、乗らないで、きちんと冷静沈着にしていっていただきたいと。そうしないと、やっぱり、いろんなことで裁判が、これからもう、さまざまに起こる」

この発言から察すると、日顕は全国で裁判が次から次に起こされることに非常な恐怖を抱いている。そして、そのような事態になることだけは、なんとか避けようと思っていることが、日顕の話の端々にうかがわれるのだ。

しかし、日顕はその言葉のあとで、次のように虚勢を張ってみせている。

「今日もなにか『地涌』によると、あー、五十カ所ぐらいで裁判をただちに起こすそうですから。で、その、そこへ全部、私を引き出すんだそうで。私も別にまぁ、近頃、あんまり裁判所に行ったことがないんでね(笑い)。場合によったら行ってもいいかと思ってる(笑い)。別にどうってことはない、あんなもの」

創価学会に法的な反撃をされないために、いろいろと腐心してきていながら、このような虚勢を張ってみせる。「お山の大将」の真骨頂といったところである。閉鎖社会の仲間意識の気安さから軽口をたたいているだけだ。実際のところ、日顕は誰よりも裁判に出たくないと考えているのである。

池田名誉会長を総講頭職よりいきなり罷免すると裁判を起こされる恐れがあるので、宗制宗規の変更にこと寄せて総講頭職より降ろした。創価学会員を登山止めにすると、これまた裁判になる恐れがあるので、添書登山の策を弄した。創価学会首脳を破門にすると、同様に裁判となる恐れがあるので、「創価学会解散勧告書」「創価学会破門通告書」といった、法的に意味をなさない宣言文を出してお茶を濁した。

日顕は、自分の裁判からの逃げ道だけはチャッカリ確保して、創価学会に対する陰謀をめぐらせてきたのである。日顕は、自分のしてきたことが、不正当で裁判に耐え得ないことを誰よりもよく知っているのだ。したがって裁判を避けるために、あらゆる悪知恵を尽くしてきたという次第である。

その日顕が、裁判のことを「どうってことはない、あんなもの」と、虚勢を張って見せている。これもまた、日顕の幼児性の故の発言だろう。この日顕の幼稚さに基づく虚勢から発せられる言葉を聞き、喜んで笑っている僧侶たちも少し能天気すぎはしないか。

日顕は今回の「創価学会破門通告書」などの策により、末寺住職などを盾にして、自分は直接、法廷に立たなくて済みそうだと読んでいるのだ。日顕は、次のようにも言っている。

「大聖人様は、えー、どうです。あの馬に乗せられて、罪人として鎌倉市中を引き回されて、そして佐渡の、あの、いや、竜ノ口の刑場までされたわけであります。そのお姿を拝する時、まっ、まっ、末世の私たち末弟が、裁判どころに行くなんて、なんてことはない、そんなものは。私はその覚悟でやっておりますから」

禅寺に先祖代々の墓を建立している謗法者が、なにを血迷って日蓮大聖人の竜ノ口の法難を自分に当てはめ話しているのだろうか。日蓮大聖人は末法の御本仏としてのお振る舞いの中で、諸難に逢われたのである。かたや日顕はと言えば、貪瞋癡の三毒強盛の故に破和合僧を策して、仏子らによって法廷に引き出されようとしているのだ。

日蓮大聖人の仰せに曰く。

「我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし」(佐渡御書)

【通解】日蓮がこのたび受けたご勘気に世間の罪は一分もない。ただ過去世の重罪を今生に消滅して、来世に三悪に堕すことを脱れることになるのであろう。

 

日蓮大聖人は流罪に処せられたが、社会的な罪は一切なかった。日顕には数えあげきれないほどの不法行為がある。日顕が法廷に引き出されるのは、社会的に罪があるからである。日顕はなにを思い上がって、日蓮大聖人と自分とを同一視しているのだろうか。

全国教師指導会における日顕の発言を聞いて言えることは、論旨がまとまっていない、論理的に破綻しているにもかかわらず自説を曲げず、執拗にそれを繰り返す、感情の起伏が激しい──といった老人性の精神疾患に基づくと思われる症状が顕著だということである。

日顕の頑迷にして陋醜な発言を聞いていると、これは宗門問題ではなく、単に老人問題のような気がしてならない。快活なる精神、柔軟な頭脳を持って、楽しく朗らかに老後を楽しんでおられる創価学会の指導部の方々は、老害と化した日顕をどのように見ておられるだろうか。

〔参考資料〕

庶務部長の早瀬義寛の示した末寺における今後の対応の詳細は以下の通り。

「1、御本尊下附

新規下附、再下附、分世帯下附等、いずれの場合も、法華講員または直属信徒となる者以外へは、下附をしない。

2、御授戒

御本尊下附の場合と同様とする。

3、総本山登山

従来どおり、申し出があれば、本宗信徒として添書を発行する。

4、御報恩お講

従来、毎月十三日におこなってきた、創価学会発願のお講は廃止する。今後は、十三日でなくてもよいが、月一回のお講は必ず奉修すること。

5、葬儀、法事、塔婆願い、納骨願い、戒名願い、永代回向願い、寺院過去帳記入願い、信徒用過去帳記入願い、墓石染筆願い、墓石開眼願い、総本山大納骨堂納骨願い、総本山合葬納骨願い、尊号願い、満山供養願い、護秘符願い、表装願い、結婚式願い、命名願い、地形式、上棟式、落成式、御遷座式、諸祈念願い、七五三祈念、上記各種法要、及び種々の願い出については、申し出があれば、本宗信徒として受け付ける。

6、墓地

A. 新規分譲……申し出があれば、本宗信徒として受け付ける。

B. 埋葬……墓地を保有している寺院において、墓地所有者から埋葬依頼があった場合は、たとえ学会葬において葬儀をおこなった者であっても、埋葬を拒否してはならない。ただし、典礼執行権は、寺院側にあるので、典礼はおこなうことを原則とするが、もしもトラブルが発生した場合は、ただちに宗務院に連絡すること。

7、会館入仏式等

創価学会からの願い出は一切受け付けない」

また、早瀬義寛は、信徒の扱いについては次のように話した。

「信徒については基本的に二とおりの考え方と扱い方があると思います。

すなわち一つは、みずから本宗信徒たることを放棄する旨を表明してきた者、この者に対しましては、まず離檀届を提出されることと、二つめに御本尊を返納させることであります。

次に、学会員であっても、特に本宗信徒たることをみずから放棄する旨を表明していない者、この人たちに対しましては本宗信徒として扱うということであります。

つまりこの時期、わざわざ寺院に法要を願い出てくるような方々は、たとえその人が学会に所属している人であったとしても、気持ちの上ではすでに法華講員あるいは直属信徒と同様であり、その人たちを排除するのではなくして、大きく包み込んでゆく方法で、方向で対応していただきたいのであります。こうした人たちが、やがて学会を脱会し、法華講や直属信徒となるのであります。

したがって、法要やあるいは添書登山などを願い出てきたときは、いろいろな条件はつけずにうまく受け付けてください」

「法要や添書の発行の申し込みがあったら、まず受け付けて法要をまずきちんとおこない、その上でそれを縁としてよく相手と話をして脱会させる。むしろこのときこそ、しっかりと相手にこの本宗の正しい信心の道筋を話して、脱会を積極的に進めていただきたいのであります。こういったことは現段階においては最も効果的な方法であると思います」

「なお宗門として今後『創価学会破門通告書』を『大日蓮』号外として印刷し、各末寺から学会員へ郵送して檀徒作りを進める」

〔解説〕創価学会への御本尊下附を一切、停止することで創価学会の発展をさえぎり、現在の創価学会員には、添書登山や法要はこれまでどおりおこなう中で、脱会を積極的に働きかけて、檀徒づくりを進めようとしているのだ。それでいながら収入源だけは確保しようとしている。

そこには法義もなにもない。あるのは欲だけである。まさに広宣流布を阻む魔が、その正体を剥き出しにしたものといえる。

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