報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

九章 破門はもん空言くうげん

地涌オリジナル風ロゴ

第328号

発行日:1991年11月24日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

『大日蓮』編集長の藁科鑑道は『地涌』の熱心な愛読者か
編集後記すべてを使い自らの細々とした思いを書いている

日蓮正宗の機関誌である『大日蓮』十一月号の「編集後記」で、編集兼発行人の藁科鑑道が、本紙『地涌』にかまってもらいたくて、1ページ全部を使って愚にもつかない文を書いている。

看過しようと思っていたが、きょうは多事繁忙のため、藁科クンを笑って埋め草とし、清涼感だけはそれなりに味わおうという次第である。

藁科クンは、本紙『地涌』第300号(十月二十七日付)を寿いで、次のように祝辞を述べている。

「ファクシミリを使って一方的に送信してくる怪文書『地涌』が、もうすぐ三〇〇号を迎える。その発行者を『日蓮正宗自由通信同盟』としているが、それがいかなる団体で、どこを本拠にしているかなど、全く不明である。したがって、いかなることを書き立てようとも怪文書の域を脱しきれないが、最近、少しずつそのベールが剥(は)がれつつあるとも言えよう。こんなもののベールが剥がれても剥がれなくても、どうでもいいことではあるが、『創価新報』や『聖教新聞』あるいは『中外日報』との関連性、さらには創価学会首脳幹部の発言などとの関わり方から推測して、かなり学会寄りの、しかも高いポジションに位置しているであろうことは、想像にかたくない」(『大日蓮』十一月号)

藁科クンは、なかなかに『地涌』の熱心な愛読者のようだ。だが『地涌』に対する尊敬の念が屈折して表現されているのが残念だ。

「いかなることを書き立てようとも怪文書の域を脱しきれないが……」「こんなもののベールが剥(は)がれても剥がれなくても、どうでもいいことではあるが……」などと書きながら、どうにも気になるのが藁科クンにとっての『地涌』なのだ。まるで、ウブな青年が初恋をしているような恥じらいが、行間ににじみ出ている。きっと、朝な夕な『地涌』のことを考えているのだろう。

「学会寄りの、しかも高いポジション」と藁科クンは勘違いしているようだが、君の尊敬の念抑えがたい『地涌』のメンバーこと日蓮正宗自由通信同盟の同盟員は、君のすぐそばにもいるのだヨ。今朝も会っていながら、君が気がつかないだけだ。変に「想像」することなど必要ない。「挨拶」すればよいのだ。

藁科クンは、続けて次のように書いている。

「ただし、その論調は極めて低劣で、モットーとして『日蓮大聖人の仏法の本義に還(かえ)り大衆のための宗門たらんことを希(ねが)う』と掲げつつも、そこには信仰心のかけらすらも見いだすことはできない。創価学会では宗門攻撃のテキストとして、右怪文書と『創価新報』を学習しているやに仄聞(そくぶん)するが、信行増進の妨げにしかならない、そのような行為に対し、憐(あわ)れみと哀(かな)しみの情を禁じえない」(同)

藁科クンの文章テクニックは大変、高度だ。『地涌』をけなすかに見せて、『地涌』のスローガンを宗門内に紹介するところが憎い。だが、心配は無用。多くの住職も、ひそかに『地涌』を愛読しているのだ。

まるで秘画を見るように、ひそかに昂奮しながら、それでいて目撃者には細心の注意を払いながら、ジーッと『地涌』を読んでいるのだ。藁科クンのスローガン徹底の配慮に感謝する。

「信行増進の妨げにしかならない」などと気負ったことを言ってないで、『地涌』を素直に読むことだ。それから藁科クン、僧侶であっても勤行、唱題、折伏はしないとだめだぜ。それをしないと天魔になるよ。

「さて、『宗内の動静・総本山』に報じたが、十月十七日、総本山の大書院において全国教師の代表者会議が開催された。その会議の内容について『地涌』では連日、論評を掲載しているが、そこに書かれる論旨を幾度(いくたび)も幾度も聞かされていると、いつしか洗脳されて、『地涌』の言うとおりだと思うようになっていくのだろう、と納得してしまう。げに恐ろしきは『洗脳』である」(同)

藁科クン、本音を書いてはいけないよ。『大日蓮』の編集兼発行人であることをしっかりわきまえ、どんなことがあっても、「『地涌』の言うとおりだと思うようになっていくのだろう、と納得してしまう」などと書いてはならないよ。

なぜなら、『大日蓮』を読んでも、『地涌』編集部の者は低劣さをバカにして笑うだけで、どのような立場に自分を立脚させても、「納得」することなどないのだ。

もしかしたら、藁科クンは『地涌』を熱心に読みすぎて「洗脳」されたのではないだろうか。ヘタをすると日顕一派にいぶかられてしまう恐れすらある表現だ。気をつけたほうがいい。

「ともあれ、同会議において、今般の学会問題も、新たな段階に入ったことが内外に闡明(せんめい)された。それに対して右怪文書では、学会員の受けるショックを少しでも和らげるためか、あるいは悩乱してか、『見え透いた茶番劇』とか『猿芝居』などと、言葉を極めて嗤(わら)い飛ばしているが、心ゆくまで嗤っていればよい。『地涌』あたりにいくら嗤われても、宗門としては、なんの痛痒(つうよう)も感ずるものではない」(同)

これまた強がった表現だが、やはり10・17全国教師代表者会議のカラクリを、宗内に速報されたのはまいったようだネ。「見え透いた茶番劇」「猿芝居」──実に適切な表現だったといまでも自負している。

「言葉を極めて嗤(わら)い飛ばしている」。やはり藁科クンにも、嗤い飛ばされているのがわかったようだネ。実は嗤い飛ばしたのだ。一千万の仏子を処分するための足がかりにしようとする「代表者会議」にしては、あまりに内容がオソマツだったからだ。

「なんの痛痒(つうよう)も感ずるものではない」。藁科クンは強がりばかりだね。痛痒を感じないのだったら、「編集後記」にあてられた1¥ページをすべて費やして『地涌』のことを書かなければいいのに……。「キライ、キライも好きのうち」かな。

「しかしながら、右怪文書が何を言っていようとも全く構わないが、少なくとも創価学会は、今、いつまでも嗤ってばかりいてはいけない。同会議における御法主日顕上人猊下の甚深の御指南(当号68ページ)を拝し、また、藤本日潤総監の厳しい挨拶(同89ページ)に接するならば、宗門の決意がいかに固いものであるかを読み取ることができるであろう」(同)

「いつまでも嗤ってばかりいてはいけない」。藁科クン、そんなことを書くなら、日顕一派にも「いつまでも嗤わせてばかりいてはいけない」と注意する必要があると思うヨ。

だけど、「甚深の御指南」「厳しい挨拶」を聞いても嗤えてしまうものは仕方がない。坊主が猿にも劣る田舎芝居をしているのだ。どうしても嗤えてくる。猿には師子の首は獲れないと思うよ。

「宗内の決意がいかに固いものであるかを読み取ることができるであろう」。これこれ、どこでもかしこでも大段平を振り回すものではない。仏子は誰もそのようなことを「読み取」ってはいない。「日顕一派の狂気が平左衛門尉のようにすさまじくなった」と「読み取」っているだけだ。

「たとえ同会議のことを『地涌』がいかように論評しようとも、これから宗門が新たなアクションを起こすための、一つの重要なステップであることは否定できまい。その重大な関門を一つ通過して、創価学会の存在基盤そのものにメスが入れられようとしている時なのであるから、いい加減に『地涌』や『創価新報』などを使ってはしゃぐのはやめて、正直な、真摯(しんし)な態度をもって宗門の教導に耳を傾けるべきである」(同)

藁科クンは、これでけっこう脅しているつもりなのだ。それにつけても、「創価学会の存在基盤」は日蓮大聖人の仏法である。その日蓮大聖人の仏法に「メス」を入れようとは、やはり藁科クンの与している日顕一派は天魔だね。

それにしても、藁科クンの『地涌』に対する屈折した感情が伝わってきて、親しみの持てた「編集後記」だった。

しかし、こんな文を書くようになったボクには、弱い者いじめの心が宿ってしまったのではあるまいか。反省。

藁科クンも今後『地涌』のことを書かないほうがいいと思うよ。論争に負けて坊主になることになるからね。あっ、いけない。君はもう坊主だった。前もって頭を丸めているとは手回しのいいことだ。

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