報恩社公式サイト③「地涌」精選

地涌選集

筆者 / 不破 優 

編者 / 北林芳典

九章 破門はもん空言くうげん

地涌オリジナル風ロゴ

第326号

発行日:1991年11月22日
発行者:日蓮正宗自由通信同盟
創刊日:1991年1月1日

僣聖増上慢の日顕が御逮夜の高座に登り空理空論を説く
そんな話より女房・政子の浪費癖全治の体験談が聞きたい

またも、日顕が日蓮正宗の宗史に大きな傷をつけた。

日蓮大聖人の御入滅は、弘安五年十月十三日である。ただし、この年月日は太陰暦によるもので、太陽暦に当てはめると十一月二十一日となる。この御入滅の日にあたり、末法の御本仏・日蓮大聖人のご出現を称え、日蓮正宗総本山大石寺において、御正当会の儀式が古式にのっとっておこなわれる。

日蓮大聖人御入滅の前夜は、これを御逮夜と称し、同様に種々の儀式がおこなわれる。御逮夜、御正当会と二日にわたって続く御大会の儀式の元意は、日蓮大聖人の「現有滅不滅常住此説法」のお姿を慶祝しようというものである。

去る十一月二十日、御逮夜恒例の寿量品の説法の最後に、日顕はにわかに「僣聖増上慢」の姿をむきだしにして、破和合僧を督励した。まさに、日開、日顕とつづく父子一体の「法滅の妖怪」ぶりだった。

日顕は、法要の席で創価学会批判をしたが、これは、本年(平成三年)一月六日におこなわれた全国教師指導会において徹底した「六項目の指針」(本紙第7号参照)に反する行為であることを、まず指摘しておきたい。

六項目の二番目として、創価学会批判について、「二、葬儀、法要の席などでは、行わないことを原則とするが、その場で質問を受けたり、説明を求められた場合には、時と場合を考えながら、これに応ずること」とある。

日顕は、日蓮正宗の二大法要の一つである御大会の場で、この六項目の第二項を破ったのだ。これでは、日顕は無法者、日蓮正宗は無法地帯ということになる。「解散勧告」をしても、六項目のうちの五つは、いまでも有効のはずである(第五項は撤廃された)。

さて、日顕は御逮夜に参詣した人たちを前に、創価学会について以下のような話をした。

「日興上人は、宗祖大聖人がその法門・法体の本懐を確立遊ばされた身延九箇年の施行を、与えられたところの波木井実長の功績が大仏法の根本的偉業であり、甚大であるにもかかわらず、宗祖滅後の謗法により正法正義が土泥にまみれるを鑑み、もはや波木井実長に大法護持の使命とその志の喪失せることを考えられて、断腸の思いで身延離山を決行遊ばされ、正応三年、大石寺を開創なされました。

本年は、それより数えて七百一年目に当たります。仏法は正に『時によるべし』であります。我々本宗の僧俗は、この開創七百一年の本年こそ、宗門において正邪をはっきりけじめをつけるべき時に当たるとともに、真の広布への基盤確立の時であるという、その甚大なる意義を深く知らねばなりません」

今日の宗門の置かれている状況を、またも身延離山に擬して話した。そして、あいも変わらず謗法者の波木井について、「功績が大仏法の根本的偉業であり、甚大である」と讃嘆している。地頭でありながら、身延におられる日蓮大聖人らを何度となく餓死の危機におちいらせた波木井が、どうして「功績が大仏法の根本的偉業であり、甚大である」ということになるのだろうか。

ともあれ、日顕は創価学会を攻撃するためであれば、史実を曲げて波木井を讃嘆するほど狂乱してしまっているのだ。

日蓮大聖人は禅坊主の狂乱ぶりについて、次のように仰せになっている。

「禅宗が教外別伝の所見は東西動転の眼目・南北不弁の妄見なり、牛羊よりも劣り蝙蝠鳥にも異ならず、依法不依人の経文・毀謗此経の文をば如何に恐れさせ給はざるや、悪鬼入其身して無明の悪酒に酔ひ沈み給うらん」(教行証御書)

日顕も「禅天魔」の体現者らしく、「正」と「邪」のわきまえが、さっぱりなされていない。日顕は、「(波木井実長の)謗法により正法正義が土泥にまみれるを鑑み、もはや波木井実長に大法護持の使命とその志の喪失せることを考えらえて、断腸の思いで身延離山を決行遊ばされ……」とまで話しておりながら、誰が謗法を犯している者なのかについて考えることができないでいる。謗法を犯しているのは、ほかでもない日顕一派なのだ。

法主が、禅寺に先祖代々の墓を建立することは謗法である。また、仏子の信心がおかしくなってもいいから「かましてやれ」などと言っているのも謗法である。塔中寺院の根檀家の謗法を見逃し、御供養をもらっているのも謗法である。みずからを「大御本尊と不二の尊体」「現代における大聖人様」と僧俗に礼讃させていること、これも謗法である。例を挙げればきりがない。

日顕一派によって、大石寺は謗法に染まってしまった。その現実を無視して、「僣聖増上慢」たる日顕は高座に登り、「この開創七百一年の本年こそ、宗門において正邪をはっきりけじめをつけるべき時」と、宗門大衆を前にして述べたのだ。

「法滅の妖怪」が、日蓮正宗僧俗を言葉巧みに幻惑しようとしているのである。そんな言葉に誑かされず、日蓮大聖人の教法により、なにが「正」で、なにが「邪」かを、はっきり見きわめなければならない。

また、この高座での説法では、日顕が語呂合わせ程度の説法しかできない、浅薄な教学力しか持ち合わせていないことも、よくわかった。

日顕は、「本年は、それより数えて七百一年目に当たります。仏法は正に『時によるべし』であります」として、正邪のけじめをつける「時」、基盤確立の「時」としている。

宗祖日蓮大聖人は、このような意味で「時によるべし」とは使われていない。日蓮大聖人が「時によるべし」と仰せになっているのは、「開目抄」「佐渡御書」「日妙聖人御書」の三カ所である。それぞれを引用する。

「天台の云く『適時而巳』等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(開目抄)

「仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず」(佐渡御書)

「正法を修して仏になる行は時によるべし」(日妙聖人御書)

いずれも、「時」に応じての「行」のあり方を述べられている。この場合の「時」とは、五綱による。何をもって日顕は「七百一年」と「時によるべし」を結びつけ、本年を「けじめをつける時」「基盤確立の時」と意義づけるのだろうか。

日蓮大聖人御在世当時も、大石寺開創時も、開創七百一年後の本年(平成三年)も、「時」は末法である。折伏を行ずる「時」である。日顕は、「時」ということが理解できていない。

「本年は、それより数えて七百一年目に当たります。仏法は正に『時によるべし』であります」

どう読んでみても変な言い回しだ。日蓮大聖人の仏法は、語呂合わせではない。

日顕は、「真の広布への基盤確立の時」と言っているが、創価学会内のわずかばかりの不満分子を脱会させ、その者たちを集めて、「真の広布への基盤」ができるというのだろうか。自分たちの謗法払いもできない法華講員を寄せ集めて、世界広布ができるというのだろうか。それでいて、「甚大なる意義を深く知らねばなりません」とは、お笑いぐさである。

単に、反創価学会不満分子の野合である。怨念と妬みの結集にすぎない。その棟梁は、貪瞋癡の三毒強盛の日顕である。不満分子の野合に、実にふさわしい結集軸だ。

その日顕が、御逮夜の高座にあって次のように言葉を続けた。

「今や創価学会は、この本来の正法広布の目的と使命を忘れ、大聖人の五重の相対の元意と深甚の法脈に背き、特に内外雑乱して、世間に媚び、利養に貪著し、悪心を懐き、常に世俗の名誉権勢を思い、多くの民衆を誑惑して我見の仏法を申し作り、正法を持つ僧俗を誹謗し、讒言しております」

「正法広布の目的と使命を忘れ」ているのは、日顕一派である。それを証明するのに、多くを述べる必要はない。折伏もせず、勤行、唱題もおろそかにしている日顕らの姿を見れば充分だ。

口と姿形だけで人を騙しおおせるものではない。出家と言いながら妻帯し、少欲知足を口にしながら贅沢三昧の生活をする、差別のない法華経に依りながら僧俗の間には絶対の差別があると主張する──日顕一派は、言うこととやることがまったく違うエセ坊主たちの集まりである。

「大聖人の五重の相対の元意と深甚の法脈に背き」という日顕の言葉は、そっくりそのまま本人にお返ししよう。禅寺に酒二本を「供養」して、禅寺墓地で先祖供養の法要をしたのは日顕一派である。馬頭観音や道祖神を前にして法要したのも日顕一派である。破邪顕正の心なく、安易に五重の相対を口にするべきではない。

「世間に媚び」以降の言葉も、すべて日顕一派のことを指している。その根拠を、以下、箇条書きにする。

「世間に媚び」──折伏をしないことが、まさにそれに該当する。すなわち、日顕一派のこと。

「利養に貪著」──葬儀の場で御供養が少ないと平気で文句を言う。塔婆供養料など冥加料の倍額値上げを有無を言わさず実施する。すなわち、日顕一派のこと。

「悪心を懐き」──「C作戦」という陰謀をめぐらして、和合僧団を破壊しても僧侶に隷属する檀徒をつくろうとする。脱会者づくりのためなら、学会員の信心がどうなってもいいと言う。すなわち、日顕一派のこと。

「世俗の名誉権勢」──広宣流布の目的を忘れ、信徒を睥睨しようとする禿人・日顕こそ俗中の俗。いまや、日蓮正宗の法主の座をも「世俗の名誉権勢」に堕してしまったのが、ほかならぬ日顕である。正絹の衣をまとい、お供を連れて、土下座する信徒の前を平然と歩く──その日顕の姿こそ、この言葉にもっともふさわしい。

「我見の仏法」──御書部分論、法主生仏論、顕本仏迹論、波木井礼讃論、三宝破壊論、猊座神秘論、塔婆万能論、僧俗差別論、友人葬堕地獄論などなど、ことごとく日顕一派の「我見の仏法」である。

日顕は「禅天魔」「法滅の妖怪」にふさわしく、実体のともなわない空理空論を弄んでいる。仏子らを誹謗、讒謗する言葉は、すべて日顕自身のことなのだ。そこには、自分に叛く者はみな不正義とする高慢さを認めることができる。

日顕は、さらに言葉を続ける。

「かかる池田創価学会は、もはや昔日の如く正しい正法を弘通する団体ではなく、自らその使命を放棄した三宝破壊の集団と化しております。故に、今月の七日をもって、宗門においては、創価学会に対して、断固その解散を勧告致しました」

三宝破壊をしているのは、日顕その人である。法主が日蓮大聖人を超えるとする、「日顕を本」「日蓮大聖人を迹」とする邪論を口にする者を宗内に野放しにしておきながら、何を言っているのだろうか。大聖人と肩を並べようとする日顕こそ、三宝破壊の張本人であることは、いまや周知の事実だ。

日顕の狂乱した言葉に反論することは、瓜を剣で斬るようなもの。なんの造作もなく、バカバカしくて反論の意欲すら失うほどの代物なのだが、それでも、日顕狂乱の記録をとどめるという意味において、その後に続く言葉を紹介する。

「よって、我々宗門の僧俗は、この時こそ一致団結して、今まで創価学会の邪義に誑かされている人々を救い、更にまた、有縁の衆生を大法の甘露へ導き、真の広布の基盤を確立しつつ、正法の広布に邁進すべきであります」

「創価学会の邪義」とまで言うなら、創価学会が寄進した寺から出て発言すべきだ。創価学会寄進の寺に住み、創価学会の供養で生活しながら、実に高慢な発言である。

宗開両祖の末流を自認するなら、少なくともそうすべきではないか。日顕は、その筋目すら通せないのだ。邪義といえば、「法然の邪義」「親鸞の邪義」「達磨の邪義」「弘法の邪義」もある。他宗派の者を折伏すればよいではないか。

檀徒づくりに血道をあげるだけで、折伏をしない。それでいて、「C作戦」にはご執心。「有縁の衆生を大法の甘露へ導き」などと言っておきながら、秋谷栄之助会長には「お目通り適わぬ身」として導かない。秋谷会長も「有縁の衆生」の一人ではないか。しかも、もっとも縁の濃い衆生の一人である。

結局、日顕が言っていることはウソばかりなのだ。

「いよいよ皆様が僧俗一致して祖道の恢復と自行化他に一層の御精進をされることをお祈り申し上げ、本日はこれをもって失礼致します」

「祖道の恢復」「御精進」を言うのなら、日顕は自分の女房・政子の浪費癖が一日も早く全治することを祈るべきである。その体験談を聞かないうちは、なにを言ってもはじまらない。

それにしても、日蓮正宗最重要の法要である御大会の歴史を、これほどまでに汚した法主がいただろうか。

寿量品文底秘沈の南無妙法蓮華経を説くべき高座の説法において、法主たるものが、結語において一閻浮提広宣流布のために戦う仏子らを誹謗するとは、宗史に残る最低、最悪の御大会となった。

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